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interview #8 田畔多實子さん



藤田 なにか言い忘れたことがある、と聞いて。また大原野に来たんですけど。

田畔 うん、なんかね。なんかすごい大切なこと、言い忘れてたと思って。

藤田 なんだろう。

田畔 やはり、演劇したっていうのは、その――友だちの影響も、すごくある。

藤田 友だち?

田畔 大学に入った時に、いろんな寸劇なんかをするんですよ。寮に入ったから、クリスマス会だとか、歓迎会だとか、お誕生会だったりだとか。そうするとその人が中心になって――同級生だから、もう一緒にさせられるわけですよ。白浪五人男だとかね、ああいうのを。パッとさせられるのね。それはもう、しなくちゃいけない。「人数足りないから入んなさい」とかっていう感じで、入ってって。

藤田 はあ。


田畔 でも、それはただそういう体験を、2年間したっていう。その寮でね。その人が卒業した後、岡山に帰って、私は東京の家に帰った。でも、その後、どうしてもその友だちに会いたくて、友だちを呼んだんですよ。東京に。彼女も、演劇の勉強がしたいから、高校からついてた演劇の先生が、その頃東京で教えていたから、その先生の教えを受けたいので、東京に行きたいなっていうのは、岡山にいながら言ってたんで。

藤田 そう聞いてたんですね。

田畔 「じゃあ東京にもう思い切っていらっしゃい、出てらっしゃいよ」つって。呼んだんですよ。そしたら、生活するのに、やはり稼がないとダメでしょ。だから、私が家でピアノ教室してたもんで。で、彼女にお教室持ってもらって。

藤田 なんの?

田畔 彼女は声楽だから。小さい子どもたちに教えるの上手だし。クラス2日くらい受け持ってもらって。で、まあ、岡山のお母さんの援助もあったりで。上京してからはその先生のところにずっと通ってたんですね。

藤田 演劇の。

田畔 で、舞台とかもあったみたいだけど、私は観に行ったことはなかったの。ただ、彼女がしたいっていうから、 応援していた。岡山の生活を捨ててまでも、彼女が演劇の勉強したいって、東京に出てきたっていうのが、やはり何をそういう風にさせたのか、って思って。

藤田 彼女にとって、演劇ってなんなんだろうっていう。

田畔 彼女も私が結婚する頃に、結婚したんですよ。

藤田 へえ。


田畔 だけど、1年で離婚して。で、その後も、演劇の勉強をしてて。私が結婚した後、10年後にはうちの両親が、私の家族と一緒に住むようになったんで、東京の家を処分して京都に来たんですよね。

藤田 はい。

田畔 両親が京都に来てからは、私も東京に行くことが少なくなったし。で、20年くらい経った頃は、彼女とも連絡取り合えなくなってしまいました。電話をするんだけど、通じないっていうことが、ずっと続いて。

藤田 電話に出ない?

田畔 電話のベルは鳴ってるから、元気なはずでしょ。いなければ電話番号も、もうクローズになってるはずだし。で、まあ元気なんだ。じゃあ、演劇のお稽古が忙しいんだ、なんて思いながらいて。

藤田 うん。

田畔 彼女が亡くなったっていうこと知ったのは、私が57くらいの時、その時に10年くらい前に亡くなったって聞いた。

藤田 誰に聞いたんですか。

田畔 その、寮の時のいっしょの友達に。たまたま出会うことがあって、連絡し合って。

藤田 何で亡くなったんだろう。

田畔 がんで。47ぐらい。私の娘もね、私と同じ大学に入ったもんで。大学に行くことが多くなり、名簿を調べてもらったりしたんですよ。事務局に行って。

藤田 探してたんですね。

田畔 探したの。そしたら、いや、この方は――あの不明になってて、前のままの住所ですよ。って言われて――

藤田 ああ。なんか、おかしいってなる。

田畔 うん。もう1人、寮で仲の良かった友達に連絡して、京都で会ったんですよ。そしたら、そこで「彼女亡くなってたんだよ、私も、もうつい最近知ったんだけど」って聞いて。

藤田 はあ。


田畔 話をしている内にーーその、彼女が亡くなる――そうね、1か月か、2か月前に、たまたまその頃私が東京に行くことがあって。連絡がやっとついた。「私、東京出て行くから、会いたいわ」って言ったら「いいよ、会おう」って言って。「私、今ちょっと、あの舞台の稽古があって、忙しいから、あなたがいるところに会いに行くわ」って言われたんです。

藤田 あ、会ってたんだ。

田畔 「じゃあ、ここに来てくれる?」って言って。本当に、ちょっと会った。「あ、時間がもうないわ、稽古が始まるから行くわ。」って言ったのが最後だった。彼女が亡くなる、ほんとに何か月。ほんのちょっと前。

藤田 ほんの少しの時間。

田畔 そう、30分ほどでした。彼女は交通事故で、額をね。縫ってたんです。その、結婚した相手と喧嘩して。喧嘩した相手が車運転してる時に、わざと岩にぶつけたんですよね。それで、彼女はもう、すごい怪我して。彼の方はそんな怪我してなかったんですよ。

藤田 無茶苦茶ですね。

田畔 離婚する前後くらいで。髪の毛が、こう長くて。傷が残ってるから、余計に髪の毛で、こう半分、隠してるんですよ。その時「帰るわね」って言って。帰る時の姿が(肩を少し傾けて)もう、ほんとに。こういう感じ。もう、傾いて、こうなって。「じゃ、帰るわね」って。後ろ姿見て、身体がこんな曲がってるしね。なんなんだろう、と思いながら。だから、その時は、ほんとは稽古場じゃなくて。入院してたんだと思うんです。

藤田 入院。

田畔 うんうん、そこから駆けつけたん違うかなって思うの。

藤田 その演劇をしている彼女のことが、なんとなく田畔さんの中に?

田畔 もう、ずーっと。ずっと。その彼女とは、2人で、大学の時も、あの伊豆を――

藤田 伊豆?

田畔 あの、天城峠で、伊豆の踊り子コースを2人で二泊して歩いたの。修善寺から。「あの、踊子コース歩こうよ」って言われて。 それで、私は歩いたこともないけど、「じゃあ、あなたと2人だったら」って。歩いて、天城越えして。あの、川端康成さんが泊まった宿にも泊まって。何かいいことあるかな、って2人で行ったけど。全然そんなこと。出会いもなく。「踊り子のように、出会いがあるといいね」とか言いながら(笑)。うん、だから、いわゆるそういうこと教えてくれた友だち。

藤田 だけどその当時は、彼女がなんで演劇やってんだろう? と。演劇というものに、興味がなく?

田畔 何にも興味なかったの。羨ましいな、とは思う気持ちはあっても。なんていうのかしら、 それだけ熱心にしてる人? ほんとに、高校時代も演劇部の部長をしてて。その時の演劇部の顧問が、岡山までいつも大阪から教えに来ていて熱心な学校。先生なんですね。クラブのために。で、その先生に、彼女も一生懸命だったから、大学入っても、その先生のところに。大阪だから、近いから、日曜日に行ってたんですね。で、そうやって教えを受けてる彼女を、ずっと見てたら、とても今から「私も演劇、あなたのようにしてみたい」とかって、言えるものじゃ全然ない。やはり、お芝居っていうのは、みんな小さい頃から、そうやって一生懸命するもんなんだな。って思って。途中からするもんではないっていうのが、もう植え付けられてたのね。私の中には。


藤田 彼女が47あたりで亡くなって、田畔さんが57の時にわかるんだよね。10年間――

田畔 うんうん。そして、いや、あんなに一生懸命してたのにな、と思いながら。ずっといてたんですけどね。60になった時に、何が足りないのかなと思って、自分でアルバムを。

藤田 そのシーンですね。

田畔 やはり、アルバムに映ってるっていうのは、なんか自然な顔じゃないんですよね、全然。小さい頃は、人前でなんかするのが好きだったよ、っていうようなことは、チラッと親から聞いたりしてたんですね。でも、それが全然しなくなって。人の前に出たいけど、恥ずかしいとか。ああ、できないとか。そういうのが、ずっと小学生の小さい心にもあって。やはり、あの、言葉――

藤田 はい。

田畔 言葉です。博多に行った時も、その小学校に入るちょっと前だから、もう関西弁ですよね。で、博多に行ったら、博多の言葉はまた全然違うので。多分、その辺で少し友だちと話す、っていうのは違和感が。自分の中にはあったんだろうな、っていう気がしますね。だから、先生がなんで選んでくれないんだろう、とかって思ってた。多分、訛りみたいのがあったんだろうな、って思いますね。


藤田 のしかかっていたんですね、言葉もそうだけど、そのことがいろんな原因になっているのかな、と。

田畔 だから、そういう仲のよかった友だちが一生懸命してた演劇。それを、彼女が思い出させてくれたのかな、って。気づかせてくれたのかな、って。

藤田 じゃあ、演劇を始めるきっかけは、幼いころの自分の写真を見て思い出した、ってだけではなくて、その友だちの彼女が、田畔さんの内側で、なんかいっしょに走っていた――

田畔 いっしょに。

藤田 ってことも、ずっとあって、思い出して。60あたりに演劇やってみようかな、と。

田畔 その、なんていうのかしら。小さい頃からでなくても、できるんだよ、っていう。そこに、気づかせてくれた、っていう話のような気がするんですね。やはり、彼女の存在。

藤田 彼女が田畔さんに病気のこと言わなかった感じもわかるような。いろんな葛藤があったんだろうけど。

田畔 と、思うんですよね。その10年、20年の間にね。27で結婚してるから、47でしょ。多分、その20年の間に、ものすごく葛藤はあったと思うんですよね。最後に会った時はフランキー堺の劇団に所属していると、「舞台稽古に今から行ってくるね、とても大切なの…」といって別れた。私に舞台を観せたかったと思う。彼女への憧れが私の中では生き続けていた。彼女も霊視ができて、「私とチバコ(当時のニックネーム)は、江戸時代、堺の町で、お琴の稽古に一緒に通っていた仲なんだ」と言っていたんです。


インタビュー:2022年12月8日


撮影:藤田貴大


荒木穂香(ひび) 柳瀬瑛美(ひび)


協力:京都芸術大学舞台芸術研究センター




田畔さん、ありがとうございました。


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