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interview #7 田畔多實子さん


藤田 いつ、夫になる人と? 座禅が、25、6くらい。

田畔 座禅の会がある時は、大体ほとんど行ってたんです。

藤田 あ、そんなに。1回じゃなくて。

田畔 だって、全然わかんないんですよ。何してんのかが。でも、そこに行く人は、熱心でしょ。で、そうしてるうちに――そうそう、父の母方が九州で、博多に親戚がいっぱいあったんですけど。私が印象に残ってる叔母が、1人いたんです。博多に。

藤田 うん。

田畔 本当に、あのヒステリーを起こすような。

藤田 ああ。

田畔 精神的に、こう、なんか鋭い人。占いっていうか、透視っていうのか。そのくらいする叔母がいて。その頃はまだ、開眼――その人はしてなかったんですけど、そのくらい精神が、鋭い女性だったんでしょう。

藤田 張っている?

田畔 人だったから。もう、私にはその叔母はもう、狂気とか思えないような叔母だったんです。その叔母が60歳前に、財産も捨てて、そして京都のお寺に出家した、っていうんですよ。

藤田 ええ! それで、京都!

田畔 不思議でしょ。出家したんです、髪の毛下ろして。なんかそういうのが見えてる人だったんです。霊視できる。霊視できる。それで清水寺に行ったんですがーーー

藤田 清水寺に?

田畔 行って。そしたら清水寺で出家できないから、仁和寺へ。

藤田 仁和寺。

田畔 うん、大きなお寺なんです。今度は、仁和寺で修行し、出家。そして、清滝にあるお寺のお留守番尼さんに。

藤田 はあ。



田畔 その頃――そのお寺は、寂れていたんです。住職はいたんだけど、常駐はしていなくて。それで、叔母が寺守尼として住みこませられた。

藤田 なるほど。

田畔 叔母はそこで霊視ができるから、信者さんが、少しずつ増えていってたのね。

藤田 ああ、求心力があるくらいなんだ。

田畔 怖いぐらいでした。透視。叔父が「博多の叔母が、京都のお寺で尼さんしてるから、多實子行ってみるかい」って言うから(笑)。

藤田 ああ、座禅とか参加しててね。なかなか夫が(笑)。

田畔 出てきます。そんで、そう、私行ったんですよ。その叔母がどうして出家したかね。もう、それが知りたくて。

藤田 だって、博多時代だからずっと会ってないよね。

田畔 小学校1、2年の頃の、お葬式の時に会っただけ。それからは、1度も。噂だけは聞くけど、親戚の間でね。会ったことはなかった。でも、その叔母がどうして、そんな――物にものすごくこだわる人が、物を捨てて、身1つで。

藤田 物というのは?

田畔 満州から引き上げてきた人なんで、物にものすごく――財産・着物に執着があったんですね。その取り合いで、親戚中で、お葬式の時になると揉めるんですよ。もうヒステリーみたいになって、ギャーっと騒いで。で、そういう姿を見てたから。ああ、なんで出家するのかねって。


藤田 初めて京都に足を踏み入れますね。

田畔 そうです。そしたら、冬だったんです。行ったら――

藤田 寒いね。

田畔 うん、あの頃はまだ雪が深く――愛宕山、もう積もってて――お堂は、ずっと上なんですよね。で、なんか、あの呼び鈴がなくて、門を叩いたら、男の人が出てきたんです。おじいさんみたいな人が、毛糸の帽子かぶって。「あ、男の人がいるんだ」って思ってね。でも、まあ、叔母さん1人だしね。「まあ、そうか」と思ったら、その男の人は、そのお寺の1番下にある小屋に下宿してたんです。お金がなくてね。

藤田 ああ。

田畔 その、下宿してたその男の人が、それまた表具師だったんです。昔は、表具師って言うけれど、今は文化財の保存の仕事。

藤田 なんですか、それは。

田畔 あのね、文化財の国宝だとか、そういうものの修理。昔は、そういう仕事をする人は、みんなあの表具師さん、襖屋さん、っていうかね。襖の張り替えさん、とか。でも、そこは昔のものを取り扱うお店で修行していた。

藤田 なるほど。

田畔 その、叔母が寺守していたお寺の住職は仏像の修理をしていた。で、こっちの人は、紙を修理する方で、知り合いだったわけです。その昔はね、そういう仕事する人は、住み込みだったんです。自分のしたいことがあったから。住み込みじゃ、自分のしたいことできないのでお寺に下宿していた。ここね、家賃もほとんどない。人、尼さん1人で物騒だから、下に門番で住んでた。よく見たらそれが若い人だったんですね。

藤田 若い人。

田畔 おじいさんが出てきたと思ってたら。けっこう、若いんですね。でも、私は叔母さんの方が、興味ありましたからね。そこの、叔母さんに、話を聞いても、どうして出家したかなかなかわからないんですね。ただ私に叔母の人生の、その――嫌なこと、不満を、わーっと、取り留めもなく私に言うだけなんですよ。

藤田 ああ。

田畔 なんて言うのかしら。博多の親戚の愚痴を、全部私に言うんです。もう、年齢も離れてるし。全然知らないのに。たくさん言うんですよ。おかしいな、出家した人が、なんでこんな終わったことを言うのか?今更ね。

藤田 俗っぽいことを。

田畔 言うの。自分が置いてきた着物のね、枚数だとかね。着物を、一軒家かどっかに置いてきてるらしいんですよ。それを九州の人たちは、どうしただろうか、とかね。だって自分、黒い袈裟着てるんですよ。それなのにね。

藤田 まだ博多での生活が。

田畔 なんかね。それも不思議で、1回じゃわかんなかったので。2、3回行ってれば、そのうち、もうちょっといろんなこと聞き出せるかなと思って。

藤田 田畔さんもすごいよね(笑)。そこまでするかな。

田畔 で、行ったらね。そのうちになんだか、目的が変わっちゃってたみたいなんですね。叔母は、彼の友達を、私に紹介しようとしていたみたいなんですよね。

藤田 彼。

田畔 表具師。だけど、叔母が京都に来るようにいうので、まあ行くわけですよ。そうすると、こっちの人が――

藤田 表具師。

田畔 「なんだ、俺の方がいいんじゃないか」と思ったのかしらね。なんか知らないけど、アタックしてきたんですよ。それでまあ、しゃあないなと思って。

藤田 しゃあないな?

田畔 私も、もうその頃ね。好きだった人がね――

藤田 いたんだ、東京に。

田畔 いたのに、なぜか急に振られちゃったんですよ。理由もなく。

藤田 理由もなく。

田畔 うん、私が好きだと思った人は、理由もなく、音信普通になってたんです。(笑)。

藤田 音信不通に。

田畔 音信不通になるんです。理由も聞かされなくね。こっちは、なんか変でしょ。それって。だから、あたしって、自分から好きになった人は、もう絶対一緒になれないんだ、って結論付けてたんです。その頃、26、27ったら、もうみんな周りは結婚してるんですよ。

藤田 へえ。

田畔 その頃に、そういう私に、こうなんだかんだって言ってきた男の人が、結婚していったんです。

藤田 そうか。

田畔 何の知らせもなく。それで、まあね。離れていってるから、そうですけど。そういう噂を「あの人結婚したよ」「あの人結婚したよ」っていうふうに聞いちゃって。もうなんか、呆然でしたね。

藤田 ですよね。

田畔 もう今度は、結婚してくださいっていう人が来たら、もうそれはどんな人であろうと結婚しちゃおうと思ってたから(笑)

藤田 それで!?

田畔 その時に、まあ、言われたから。仕方がないか、っていう。だから、間違い(笑)

藤田 結婚するから、27の時に京都に?

田畔 結婚してね、そうです。ずっと、今いるんです。

藤田 その人と、このあたりに。大原野。

田畔 この辺の地名は、春日町っていうのね。大原野神社は春日大社の分社なんです。私たちが来た当時は、まだそこに鹿園があって。春日大社の鹿が送られてきて飼育されていた。

藤田 へえ。



田畔 ここ裏道があるんですけどね、そこ、とんとん、とんとんって降りていったら、藁葺きの家があって。その、藁葺きの家で住んでたんです。でも、雨漏りがひどくなったんで、もう引っ越さなくちゃいけないっていうことになって。すぐ近くのところが売りに出たんで、そこを父がもう買う、って言って。私と住みたいために(笑)。

藤田 お母さんといっしょに?

田畔 2人いっしょに、もう東京の家を処分して。こっちに来ちゃって。ここの景色見ると、今は細い道も――全部舗装してありますけど。その当時は、みんなでこぼこ道で、そして田んぼも――みんな本当になだらかな、こんな感じの景色――畑だったんですね。ほとんど人もいないしね。そうすると、夕方なんかこうやって、じっと眺めてると、いかにも平安時代のね、童たちがね、稲穂持って遊んでてもおかしくない。それが、絵になるような景色だったんで――ああ、この景色を見れて、まあいいかと思いつつ。

藤田 ああ。

田畔 表具師っていうのはね、給料が安いんです。もう、とっても安くて生活ができないんですね。だから、あの、私はその頃、ピアノ教えたりしてたんで。もう、必死で。

藤田 仕事もして、子も生まれて。

田畔 お教室に、子ども抱えて行ってましたね。夫は、仕事場に。

藤田 仕事場。

田畔 あの市内にね、通ってたんです。夫は。

藤田 その、茅葺き屋根のお家じゃなくなるのは、おいくつぐらいの時ですか。

田畔 雨漏りが激しかったから。もう娘が3歳になる頃には、もうそこには住めなくなって、近所の今の場所に移ったんですよ。

藤田 そこに、お父さん、お母さんも。

田畔 来たのはね、3、4年経ってから。古い家がついてたんですけど、そこはちょっと、両親も呼んでということはできなかったから、建て直しして。そして、来たんですね。小学校に入る時に。それからは両親と、私たち家族と。


藤田 田畔さんがおいくつくらいの時に、お父さん、お母さんは?

田畔 父はね、平成12年に亡くなったんです。もうかれこれ、20年になるかしらね。86くらいで亡くなったから。母は、5年ほど前に亡くなったんです。母は、けっこう気楽な人だったから、長生きしました。

藤田 じゃあ、60になるまでは家のことで。

田畔 もうだから必死ですね。生活とそれから、やはり娘が――娘に、私の人生を託すような、ちょっと勘違いしていた部分があって。

藤田 人生を託す?

田畔 もう、娘の――したいっていうことは全部やらせたの。だから、それやらせるためにも、お金いっぱいいるからね。

藤田 この風景の中で、お子さんたちは育ったんですね。

田畔 そう、それをね。私には、故郷がない。全然、実家っていうものがないから。子どもたちには、実家っていうものを置いときたい、っていうのが――なんか、ものすごく強かったんですね。そして、この景色。小さい頃に見た景色、っていうのは忘れないんじゃないかっていうのが、ずっとあったんですけど。子どもたちはあんまりそういう思いは持ってないようですね(笑)。

藤田 そうなの(笑)? 

田畔 娘には本当に悪いことしたな、って。7歳になった時に、私の両親といっしょに住みめじめたので、それまでは親子3人の生活から、やはり私の両親と一緒に住む、っていうのは、間に入っちゃうんですね。娘が。

藤田 そうか。

田畔 そして、その私の不満を、娘に聞かせる。そして主人の不満も、娘に。それをずっと、聞かされてたみたいですね。


藤田 あ、あの叔母さんは?

田畔 叔母さんはね、私たちが結婚した後亡くなりました。結婚して3年だったかな。

藤田 どうして亡くなったの。

田畔 わかりません。で、その叔母は、私と、この彼が結婚することに反対したんです。

藤田 はいはい。

田畔 友人と結びつけたかったのに、彼が来たから。もう、ダメダメ、ダメダメ、って。ものすごく反対して。それもなんか不思議だったんですね。なんで反対するんだろうって。

藤田 そこまで。

田畔 不思議です。多分、叔母はすごく綺麗な人。すんごく魅力があるので、「なんかあったんでしょうね」と思います。私は。だってね、叔母が私に言うんです。「夜、寝てる時に、馬の尻尾、尻尾、って言うんだよ」って言うんです。だって、本堂がこっちでしょ。で、小屋はこんな下でしょ。なんで、彼の寝言が聞こえるの? って思いました。

藤田 怖い。

田畔 うん、怖い話でした。で、それの謎を解こうと思ったかな。

藤田 謎を解く?

田畔 解く意味もあって。そんなにおばが反対するんだったら、結婚してやれ! っていう気もあったかもね。

藤田 ああ。

田畔 その叔母は結婚した後も、「反対してやる」って。信者さんたちに、そう言ってるのを聞かされました。だから、怖かったです。夜、外に出るのが。その叔母の霊がね、出てきてるんじゃないかとか(笑)。真剣にその時はね、怖い叔母の顔が覗いてないかなとか、思いながら(笑)。

藤田 すごいな。

田畔 家の裏に叔母が夜、現れるんじゃないか、と思ってね。それで、明るい時はいいんだけど、暗い時。夜、ゴミ出しするんですけどね。行く時は、本当にゴミをパッと捨てて、もうサッと戻ってくる。向こうの薮からね、叔母の目が光ってるんじゃないか、っていう気はしてね。随分、何年もかかりましたね。それを払拭するまでに。


藤田 お子さんとの時間もあったんですよね?


田畔 その頃ピアノ教師を昼間していたので、小学校に入学するまでは娘と触れ合う時間を取りたいために、幼稚園にも入れませんでした。朝から娘と過ごしていたいから。幼稚園に入れる代わりに、娘が「あれしたい、これしたい」っていうものをなんでも/必要と思ったものを、毎日スケジュールに組み込んで、その様子を見守っていました。そう過ごすことにしたので、費用もかかりますよね。そのために、私は働きました。


藤田 すごいな。


田畔 私自身、娘が生まれたことで、初めて大原野の景色の中で生活をするのが楽しみになったし、希望が見えたんです。娘には自立して、思い通りの結婚をして欲しい。思いを貫いて、失敗しても何しても、希望通りの人生を歩むことを、娘に託しました。だからこそ、大原野を故郷として残したいと思った。娘が戻って来れる場所を置いておきたい。私にはなかったから。



藤田 それで、まあ、60からは演劇に出会った?


田畔 そうですね。もうだから、全部蓋してたのを解き離しちゃってもいいんじゃないか、って思って。演劇のところに、行きましたね。始めてみたら、舞台の上を歩いてるかどうか、っていうのがわからない。

藤田 わからない。

田畔 演劇に出会って、初めてなんていうのかな。あの、自分のしたいとこに行ける、っていうのが嬉しかった。でも、そこに至るまでには多分、その自分の生い立ち――生い立ちっていうんじゃないけど、やはり転勤族だったっていうことで――

藤田 はい。

田畔 言葉の壁がすごくあって、それを乗り越えられない。朗読っていうのは、ものすごく好きだったんですけれども。でもそこに、1歩足を踏み入れることができない自分が、ずっといた。そして、あの――今までのものを全部もう帳消しにする、っていうじゃないけれども、自分が苦手だと思ってたことを、超える60歳。ポイントだったかなと思うんですよ。

藤田 60がね。

田畔 それがなかったら、いつまでも言葉の壁があり、好きな事ができなかった。その、嫌だ、嫌だ、苦手だ、苦手だと思ってた意識を乗り越えられた。今までのことはみんなもう忘れて、新たに自分の欠点とか、恥とか、さらけ出してできたって思うんですね。60歳はポイントでしたね。


インタビュー:2022年11月8日


撮影:藤田貴大


荒木穂香(ひび) 柳瀬瑛美(ひび)


協力:京都芸術大学舞台芸術研究センター



-interview #8 へ続く

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