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interview #6 田畔多實子さん



藤田 僕にとっては、生まれ育った町を出た18歳というポイントがあるんだけど。田畔さんにとって、人生を振り返ってみたときに、何かそういうポイントってありますか。

田畔 たくさんあるような気もするんですけれども。人生のポイント って言われると、多分60歳のときかなって思いますね。

藤田 60。その時は、何を?

田畔 何が、っていうより、私、60歳までに死ねたら幸せと思ってたんですよ。ずっと。

藤田 うん。

田畔 そしたら、なんだか60歳もまだ元気で、ピンピンだったんですね(笑)。

藤田 (笑)。

田畔 それで、なんか残念だなって。

藤田 残念。

田畔 うん。いや、もう60歳までに亡くなって、お墓に入ってれば、もうハッピーっていうあれがなくなっちゃったから、残念だなっていう。多分、単純な思いなんですけどね。自分の本心とか、そういうの、子育てに忙しいとかで、振り返ったことも何もなかったんですけど。60歳になって、自分が本当に苦労して働いた年金が、10年分だけあったんですよ。

藤田 はあ。

田畔 うん、10年分だけ。年金事務所に行って調べてもらったら。本当にわずかなお金だったんです。10年分だけだったから。それを、大事に使いたいと思ったんです。

藤田 はいはい。

田畔 そして、あれがしたい、これがしたい、って今まで思いついた分。その分を使っても、私はあまり器用でもないし、ただ興味本位でしたい、って思ったことって――多分、もう続かないだろうって思ったんですね。私の母を見てた時に、なんかそういう感じがしたんです。

藤田 母を見ていた時に?

田畔 母を見てたら、いくら60代で興味があっても、70過ぎた境に、その興味が失っていくんですね。

藤田 へえ。なるほど。

田畔 まだ元気だから、いろんなことを挑戦できても、70代でそれが途切れてしまう、っていうのがもったいないので。70代につなげられるような好きなものを、探したいなと思って。


藤田 どうしたんですか。

田畔 一生懸命考えたんです。

藤田 なんか、見つかったんですか。

田畔 見つかりましたね。小さい頃からのアルバムとか見て、写真っていうのは、その時の状況は知らなくても、なんとなく目に浮かぶんですね。それを見ていってる間に、小学生の時に、学芸会のお芝居に1度も出させてもらったことがなかったんですね。

藤田 え、なんでだろう。

田畔 いや、それは自分わかりませんけど。1度もなくて。

藤田 1度もない。

田畔 いつも、お遊戯だったんですよ、場面の。舌切すずめだったら、そこにおじいさんが宴会するでしょ。そこの場面とかね。そういうとこに、お遊戯しか出させてもらえてなくて。で、それがもう、毎年悲しくてね。来年こそは、なんか劇に出られるかしら、って思ってたら、またお遊戯なんですよね。

藤田 それをアルバムの写真を見ていたら、思い出したんだ。

田畔 もう、「悔しい! 残念!」っていうのを思い出して。そうだ、死ぬまでに、じゃあ、お芝居っていうのを一度やってみたい、って思ったんですよ。ちょうど、そう思ってた時に、新聞に、熟年ミュージカルの団員を募集してたんです。

藤田 へえ。



田畔 発起塾のなんですけどね。その人たちのことは、なんとなくニュースで知ったりはしてたんですけど、そういう人たちは、特別な人だと思ってたんです。そしたら、そこには初めての人、50代以上から100歳までの人は応募できます、って書いてあって。いろんな項目があって、演技もあれば朗読もあれば、歌もありダンスもあり。それでひょっとして、これだけ授業があれば、私のしたいところがあるかもしれないと思ってね。応募しちゃったんです。

藤田 それが60歳。

田畔 60の、本当に誕生日過ぎた後でしたかね。

藤田 え、すごい。

田畔 自分も思いました。もう、すごいきっかけだと。だって、それまで演劇なんてほとんど見たこともなかったし。

藤田 そしてまた、そのアルバムをめくる機会がなければ――

田畔 なければ。そういうことも、到達してなかったんです。アルバムを見て、その新聞記事を見て。すぐ電話番号、書き取って。で、右京のふれあい会館で、説明会があったんです。

藤田 行ったんですね。

田畔 はい。行ったら、本当に大勢の人がいて。100人近く。もう部屋に入りきらないくらい。その熱気が、すごくてね。皆さん「やります、やります」って。もう、それ見てただけで、私もなんか「もうこれはやらなくちゃ」っていう気持ちになって。そこに、入会したんです。そして年金をその授業料等にあてることにしました。

藤田 おお。

田畔 そして、2年間のコースを2回やったんですね。1回目の修了公演の時、舞台に立ったんですけど。舞台の端から、こっちの端まで歩きなさい、っていうのがあって(笑)。

藤田 歩く。

田畔 それが、もう自分で歩いてる感覚が何もないんです。ふわふわ、ふわふわ、歩いてるようで。そこの袖まで行ったかどうか、わからないんですね。で、演出の方に「私、ちゃんと、歩いてました? 袖まで、行ってました?」って聞いたら「行ってたよ、ちゃんと歩いてたよ、君」って言われるんですけどね。その感覚が、全然なくて。でもせめて、板の上に立つ感覚だけでも欲しいと思って。また2年間、行ったんです。


藤田 田畔さん、生まれは?

田畔 生まれはね、西宮なんです。兵庫県。父親が転勤族だったので、しょっちゅう転勤になるんです。

藤田 じゃあ、いろいろ――

田畔 ですね。西宮行って、小学校入る前には、博多です。九州の。博多が一番長かったかな。5年間。その、博多の時に、学芸会に出られなかった(笑)。

藤田 博多での記憶なんだ。

田畔 博多はね、小学校の5年生の秋。10月までです。


藤田 その次は?

田畔 東京です。東京のね、向島っていう下町です。そしたら、そこはまあ、言葉が全然違うでしょ。

藤田 でしょうね。

田畔 もう、こっちは博多弁丸出しですからね。八百屋さん行ってもね、おじさんが何言ってるか、わかんないんですよね。ぽんぽん、ぽんぽん、って。もう、叱られてるみたいで。

藤田 下町のね。

田畔 もう悩みで。その、博多から東京に転校して、そしたら小学生って正直ですね。いたずらっ子たちが言葉を、笑うんですよ。

藤田 東京の子たちが――

田畔 うん。みんな、仲良くはしてくれるんですけど。一言喋ったら「わあ」って笑うんですよね。でも、なんで笑われてるかわからなくって。そしたら「言葉が変だよ」って言うんですね。それから、なんかもう喋れなくなる、っていう感じで。言葉の悩みは、そこから始まったんです。

藤田 いつまで向島に。

田畔 中学3年の時に、今度は西宮に。

藤田 あ、帰る。

田畔 帰るっていうか、また父が転勤になって。で、東京ではミッションスクールに通ってたんですよ。今度は神戸の学校に行って――中3から、高3まで。行ったら、そこでもなんかこう、言われるんですね。「あなた、どこから来たの」って。

藤田 あ、じゃあ自分の言葉がないんだ。

田畔 ないんです。東京に行けば「関西?」って言われるんですけど、関西に来ると「東京?」っていうんですね。

藤田 むつかしいですね。

田畔 でも、東京って言っても、私はそれが東京かどうかわからないんですよね。標準語、って言われてもどうもわからない。私、あんまり音感が良くないんで、イントネーションとか。そういうの、全然わからなくって。本を読んだりって、声を出すことが好きなのに、出すとその発音が違うとか言われちゃうんでね。

藤田 つらいなあ。

田畔 で、高3の時にまた、父が名古屋に転勤。でも、もう高3の時は受験も控えてるし。

藤田 大学?

田畔 短大のね。だから、私は名古屋に行きたくないと思ったんですよ。受験校変えなくちゃダメでしょ。「もう行きたくない、私は」って言って、西宮に親戚の家があったんで、たまたま。「いいよ、1年間うちにいて」って言ってくれたんで。そこの親戚の家に下宿させてもらって。

藤田 1年間。

田畔 そうです。入学後は箕面市の牧落にある寮に入ったんです。全国から来てるでしょ、みんな。面白かったですね、言葉もいろんな言葉が飛びかって。

藤田 あ、じゃあ、そこでちょっと自由になった、というか。

田畔 そうですね、いろんな言葉があるんだな、って。面白いな、って。広島の人たちの言葉も楽しいしね、熊本の人たちの言葉も。だけど、人前でなんかするっていうのは嫌でした。

藤田 なんでだろう。

田畔 その寮に入ってても、あなたはどこなの、って言われるわけですよ。明確に、その故郷、根っこがない。広島弁だったら、はっきりわかるでしょ。「じゃろ」「けん」とか。だけど、私はなんとかこう、フラットにしよう、っていう意識がずっと強かったのか、大阪弁喋って、って言われたら、喋れないです。いまだに。で、京都の言葉、って言われても、ダメ。絶対、ちょっと真似するとね。みんな笑うしね(笑)。

藤田 でも、たしかに田畔さんから方言を感じたことがないかも。


田畔 結婚してから、本当にずっとここなんですけどね。だけど“よそ者”です。ここでは。常に。よそから来た人、っていう感じだし。地元とは認めてもらえない、っていうかね。

藤田 短大を卒業するときは、20歳。

田畔 その時は、東京だったんですね。また(笑)。卒業した時は、やはり家に帰らなくちゃ、と思って。何もないしね。しょうがない。食べさしてもらわなくちゃ、と思って。東京に、六本木です。それこそ都会です。

藤田 六本木。

田畔 うん、今は、森ビル。あのすぐ近くでした。あのアマンドとか、メイ牛山さんの美容室とかね。そんなのが、ちょっと裏に行くとあって。すごい綺麗で、お洒落でしたね。そして、大使館がたくさんある。散歩する時はいつもそうですね。坂があってね。有栖川公園がありました。

藤田 そこには、いつまで?

田畔 そこはね、2年ぐらいしかいなかった。で、祖父が東京の国分寺に、持ってた土地があったもので。そこに、家建てる言って、家建てたんですね。それで国分寺に結婚するまでいましたね。

藤田 結婚が、いつ。

田畔 結婚は、昭和47年だから。1972年かな。だから、えっと、27か。

藤田 27ぐらい。じゃあ、そこから京都。ってことは、京都の人と?

田畔 たまたま京都に住んでた人と結婚したんですけど。不思議ですよね(笑)。

藤田 だって、それまでの人生で、京都ないもんね。国分寺に、家も作っちゃって。

田畔 国分寺もとってもいいところでしたね。

藤田 今もあるの、そのご実家?

田畔 父が、私と住みたいために、そこ処分して。こっちにきました。

藤田 え。

田畔 あのね、本当に不思議な話なんですけど。6年間、中学、高校とは、キリスト教の学校だったんですね。そして、キリスト教の教えばっかり受けてたんです。そしたら、卒業した後は、日本のものに興味が出るような感じだったんですよね。逆方面に。

藤田 逆。

田畔 それと、その国分寺で住んでた時に、もう1人叔父が隣りに――やはり、家を建ててたんです。隣り同士で。私の祖父っていうのは、心理学の研究者で、大正時代にドイツに留学してたんですね、昔。

藤田 ドイツ。

田畔 で、そのドイツの言葉とか、西洋のものを、ものすごく勉強してるのに、晩年、日本芸術っていうものに、すごく興味を持って。そんな本を書いたり。そして自分は、謡をしたり。能の。

藤田 能。

田畔 うん。それをしたりして、常にうたってたっていうかね。そして、その隣りに住んでた叔父も、そういう血を引いて。狂言とかそういうのを、趣味でやってて。叔父も不思議なことに、はじめはキリスト教の学校で先生をして、洗礼を受けてたんです。夫婦ともに。それなのに、辞めて。当時は仏教の高校で先生をしていました。


藤田 そうなんですか。

田畔 曹洞宗です。そこに今度は、就職しちゃったんです。もう、私の頭の中ではね、洗礼まで受けた人が、なんで曹洞宗の学校に行って、また先生になるのかね。

藤田 それもそれで、すごい人生ですね。

田畔 もう、不思議で不思議でしょうがない。常に、疑問があったんです。割と好きな叔父だったんで。でも、その叔父はそうやって、謡をずっと日曜日になると、朝から唸ってるんですよ。で、隣りで聞こえてくるんですね。でも、いい響きなんで。で、私もそういうのにちょっと興味持ったんですね。

藤田 あ、興味を持つんだ。

田畔 今までピアノだとか、そんなの西洋のばっかりやってきてたけど。いや、やはり日本人だし、日本のものの方が、なんか合うんじゃないかしらと思って。それで、私もお仕舞を習い出したんですよ。

藤田 お仕舞。

田畔 まあ、下手くそなんだけどね。とりあえず、その着物が着たいっていうのもあったもんで。お茶も習いに行ったけど、お茶は着物着てはしないんですよね。お稽古の時は。先生が手が悪くて、着物が着れなかったから。


藤田 大好きな叔父さんだったんですね。田畔さんも、興味を惹かれていくわけだから。

田畔 持っていくような。なんかあったんでしょうね、きっとね。そして、曹洞宗でしょ。学校が。だから夏休みになると、座禅の会が開かれるんですよ。で、「多實子行ってみないか」って言われたんで、座禅。

藤田 座禅。

田畔 そんなものね(笑)。知らないけれども。でも、「そうか、それ行くと、ひょっとしたら何かわかるかもしれない」と思って。何泊か忘れたけど、泊り込みで行くんで。朝からもう、4時半ぐらいから起きて、1日座禅です。早朝座禅して、それからなんかみんなで、おかゆ食べて。お掃除してね。また、座禅してって。それを何日間する、5日間ぐらいするのかな。

藤田 しっかりと、座禅ですね。

田畔 あの頃ね、超ミニのスカートが流行ってたんです。もう、超ミニのね。まだ、そんな服トレーニングウェアもない時代ね。座禅組む。一体、何持っていけばいいのかって、一生懸命考えてね。スカートがバーって、広がればいいやと思ってね。膝が隠れるぐらいのスカートで、それもこうなったらいけないから、スクラップにして作ってもらって。それ持って行って、座禅行った(笑)。



インタビュー:2022年11月8日


撮影:藤田貴大


荒木穂香(ひび) 柳瀬瑛美(ひび)


協力:京都芸術大学舞台芸術研究センター



-interview #7 へ続く

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