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interview #5 桒原弘子さん



藤田 なにか仕事に就くんですか。

桒原 今の芸大のあるとこにあった、藤川洋裁学校って、あれが昔は、御池通りにあったんです。そこへ行ってました。でもね、その時も、先生方の作品発表の時に、モデルとして歩いたりとかしましたから。けっこうなんか、そういうところで人に、こうちょっと、目掛けられるっていうか。先生の推薦で、叡電のポスターのモデルになったりとか(笑)。貼ってありましたわ。

藤田 何者なんですか、桒原さん。

桒原 なんか、飲み物――昔、よう流行ってた飲み物に――1人だけで、こんなやってるやつがありました。それも、ようお店なんかに貼っててありましたわ。ポスター。

藤田 今、僕は誰と話しているんだろう。

桒原 いろいろ、周りからチヤホヤされてきたような気がします。

藤田 洋裁学校っていうのは、2年ぐらい?

桒原 そうですね。

藤田 20歳以降は?

桒原 勤めに行くことはしなかったです。だから、一切給料もらって勤めるということは経験がなかって。ずっとあとに、思わぬことでそういう機会がありましたけど。

藤田 そうなんですね。

桒原 27で、結婚。

藤田 その夫とは、どうやって?

桒原 どうやってっていうか、知り合いの推薦っていうか。主人が、経営士をやっていまして。

藤田 経営士。

桒原 司法書士とか、そういう資格を持って、中小企業診断士とか、そういうので総合的な。で、その経理的なのがあったんで、私がなんとなく手伝うようになって。経理がザっと、できるようになったんです。


藤田 30代で、お子さんが。

桒原 そうですね。3歳から幼稚園行きまして、車乗りますから、送り迎えしますよね。その時に知り合った、ママ友ですね。今で、言う。3歳児クラスの保育っていうのは、10人とかって、もう限定されて決められてて。試験もあって入るんですけど、親の試験もありまして。「えー」と思いまして。

藤田 えー。

桒原 なんか書いたりね、色々ありました。「わー」と思いましたけど。まあ、なんとかそこは、入れていただいたんで。その時のお友達と、仲良くなりまして。幼稚園でも役やったり、バザーのいろんな品物つくったりしてて。

藤田 選ばれたママ友たちで。

桒原 その中の1人のお母さんが、50何年前ですから、これからの女性は教育を身につけんといかん、と。それで勉強しなあかん、と。そうしないと男性と対等には付き合っていけない、っていう。そういうおもいで、会をつくられてたんです。

藤田 そういう会。

桒原 月に1回、娘たちもそこへ参加させるために、“ジュニアクラブ”っていうのを作られるということになって。その初期から、その会へ――

藤田 桒原さんも。

桒原 はい。月に1回、いろんなすごい先生の話を聞いたりなんかして。心理学や、それからフランス文学やったり、政治学者とか、錚々たる先生方が。12月は、パーティーです。そんな、華やかな会だったんです。いわゆる――

藤田 ああ、そういう会に。

桒原 幼稚園のときから、ずーっと。30年くらい在籍。

藤田 へえ、そんなに。


桒原 その中で、いろんな勉強しながらいてて。私、心理学にちょっと、興味を持ちまして。そしたら、電話相談員っていうのがある、っていうことで。

藤田 電話相談員。

桒原 京都市の教育委員会の電話相談員に応募したら、入れてもらえて。そこは厳しかったんです。年に一回宿泊研修があったり、月に一回研修があったりしますから。

藤田 なんの相談を?

桒原 それは、子どもと親の関係ですけど、いろんな人から電話かかってくるんです。15、20年近くいたんですかね。

藤田 そこに。

桒原 はい。その時のスーパーバイザーが、京都犯罪被害者支援センターっていうのを立ち上げたメンバーだったんですよ。その時に、そこへ参加。そこも、電話相談でやってたんですが、ふたつは大変なんで。もう、犯罪被害の方を主にやってたら、今度は京都府の教育委員会が、国の予算で、家庭教育的なことも電話相談を設ける必要がある、ということで。

藤田 なるほど、次々と。

桒原 スーパーバイザーの推薦で、京都府の教育委員会に行きました。そこで嘱託になって、2年間。それが初めてです。給料もらったのは(笑)。

藤田 あ、このタイミングで。その2年間だけ?

桒原 そうなんです(笑)。


藤田 それが、いくつくらいの頃?

桒原 そうね、60歳くらいやったと思いますね。その、府のセンター行ったのは。

藤田 例えば、どんな電話が来るんですか?

桒原 そらもう。印象に残ってるのは、あの――腹話術みたいに声変えてね、「お母さんに代わるね」って言うんです。そしたら、お母さんの声で出てくるんです。

藤田 あ、1人の人がやってるってこと。

桒原 やってるっていうのが、わかるんです。

藤田 こわいなあ、それ。

桒原 あ、これはあれやなって思って。「じゃあ、お母さん何してるの」って言うと、「今、ごはん作ってる」とかって言う。でも聞いてると、実感がないから、わかったりとか。

藤田 はあ。

桒原 電話越しに、時計の音がしたりとか、猫の声がしたりとか。

藤田 聞こえるんだね。

桒原 「あ、猫いるんやな」と思いながら、話を聞くんですけど。なんかのときに、それ振って言うと、「うん、可愛がってるんや」ってありましたね。

藤田 おお。基本は、聞く。

桒原 うん、聞くこと。

藤田 聞かないと、どうしようもできない。

桒原 聞いて、そっからいろんなこと考えて。考えながら、それは口には出さないで。相手が言うのから、ヒントを得て。何かを突っ込んでいく、っていうか。

藤田 すごい仕事だなあ。

桒原 守秘義務を、絶対守らんなんから、聞くのはもう、ものすごいエネルギーいるんです。それで。もうしんどうてやめました。70で、全部。

藤田 しんどい。

桒原 私の声をわかってる人は、私が出てくるような日にちとか、時間帯にかけてきたり。

藤田 ああ。

桒原 この人、わかってるんや、私の声が。そらもう、向こうもわかりますよね。だからもう、帰りはものも言えんくらい、しんどかったです。


藤田 そういう活動というか、仕事を、お子さんもいながら――

桒原 そうですね。学校行かしながら。だから家のこと、きちっと全部して、それから好きなことするっていう。車運転できましたから、運転しながら、これから相談員やとか、これからおかず買うて帰るとか、車の中で、頭切り替えてやってました。これから家帰って、「主婦や」っという、イメージ転置をして帰る。

藤田 桒原さんの、ご両親は――

桒原 母は、もう85すぎになったときに。弟が、東京にいましたから。温泉の出るところの近くに家建てる、っていうので。そこへ行きましたから、私は母の老後は、面倒見てないです。父親は、母がちゃんと看病をして亡くなりましたから。だから、そういう介護はしたことないんですが――やっぱり母は弟が一番可愛かったと思うし、だから行きたかったんじゃないですか。

藤田 桒原さんの夫は?

桒原 私が、60の時に。

藤田 亡くなった。早いですね。

桒原 早いです。癌です。

藤田 病院で?

桒原 府立。その時、息子は府立に医者の研修でいましたので。

藤田 あ、そうなんですね。

桒原 何かと世話してくれましたから。私はあんまり、看病につかなくてよくて。ほんで好きなこと、車で走り回って。

藤田 それで、じゃあ70くらいの頃に、その電話とかも全部やめて――演劇というか、表現に再会するんですよね? 春秋座で。舞台に立つ。

桒原 最後やし、やってみようかなっていう気持ちで。今度は、本当に自分からやろうという。周りから、こうされてやるんじゃなくて。

藤田 うんうん。

桒原 あの頃に、自分で言ってなったら、私も人生変わってたと思います。これがやりたい、何にやりたい、とか言ってなってたらね。そら、あの伊藤大輔監督の『地獄花』に、子役みたいな感じで出たりして。その次にやるのにも、候補に上がったんですが、その映画自体、ポシャってしまって、無くなったんです。

藤田 そんなこともあったんだ。

桒原 その時、それに出てたら変わってたかもしれない。その時も、題字にちゃんと名前出てましたから。だから「へー」と思いながら、見てたんです。

藤田 へえ。

桒原 人生はもう、本当にどっかで変わるなと思いますね。自分に道筋があるような、決められたようなものがあるんかな、ってこの頃つくづく思いますね。

藤田 どこかで偶然、何かしてたら今じゃない道に行ってた?

桒原 だから、曲がり角に来た時に、“ふたまた”に来た時にどっちに行くか。それを自分が決めるにしろ、何にしろ、そっちに行くいうことが、何かが作用したんやろうと思うから。


インタビュー:2022年10月18日

撮影:藤田貴大

荒木穂香(ひび) 柳瀬瑛美(ひび)

協力:京都芸術大学舞台芸術研究センター



桒原弘子さん、ありがとうございました。

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