MUM & GYPSY 10th anniversary year

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藤田貴大+青柳いづみ「『みえるわ』を巡って」

今年の1月31日から3月11日にかけて全国10都市を巡演した「みえるわ」。5都市目に訪れた札幌では、公演を翌日に控えた2月14日、藤田貴大と青柳いづみによるトークイベントが開催されました。10周年を迎えて、初めて対談することになった二人のトークを抄録します。


 

――明日、川上未映子さんの詩をマームとジプシーが上演する公演が札幌で行われるということで、それに先駆けてトークイベントを開催することになりました。マームが札幌で公演をするのは去年が初めてでしたけど、その作品をご覧になった方には伝わっているかと思いますけど、藤田さんの作品の中では「町を出る」とか「上京する」ってことがすごく大きいテーマになっています。藤田さんと青柳さんが知り合ったとき、藤田さんは上京して一年後ぐらいだったと思うんですけど、その頃の藤田さんってどんな印象でしたか?

 

青柳 さっき空港に着いて、電車に乗って札幌にくるまでのあいだ、藤田君が外の景色を見な がら「なあ、暗いだろう? 暗いだろう?」ってずっと言っていて、そういえばあの頃はこの雪景色を全部纏ってるような青年だなと思ってました。

 

藤田 そうなんだ? 伊達、あんなに雪降ってないけど。

 

青柳 それで、ずっと「自分は27歳で死ぬ」と言っていて。ほんとに死ぬんじゃないかと思うぐらい痩せていたし、雪のような暗さを纏ってました。

 

藤田 まあ青柳は東京で生まれ育ってるから、大学に行くにも上京なんてないんだよね。

 

――藤田さんはこの10年間、上京する、町を出るってことを藤田さんは繰り返し描いてきましたよね。青柳さんは藤田さんの作品に出演されてきて、そのモチーフについては何を思っていたんですか?

 

青柳 最近になって言葉でまとまったのは――これは人の言葉ですけど――その「家を出る」みたいなこととか、寺山の『書を捨てよ町へ出よう』とかも、それは全部言葉でしかなくて、言葉なんだなっていう感じです。

 

藤田 ああ、体験じゃなくてね?

 

青柳 体験とか、そういうものではまったくなくて。そういうものは絶対に得られないんじゃないかという気がします。言葉でしかない。すべてがそうですね。町を出るってこと以外でも、色とか、光とか、それもすべて言葉でしかないんじゃないかと思います。

 

藤田 僕は22歳のときにマームとジプシーをつくったんですけど、そのときにはまだちょっと恥ずかしくて、皆に自分の地元の話はしてなかったんです。でも、北海道の伊達市のことが自分の原風景にあるってことに気づき始めて、「こういう町だったんだよ」みたいなことを話し始めたんですよね。でも、その話って皆にとっては他人事じゃないですか。それを演劇として上演するっていうときに、俳優の皆は演じるわけだから、ある程度は当人の気持ちになっていかなきゃいけない作業があったんだと思うし、僕は僕で「何で僕の気持ちがわからないの?」という方向にシフトしていった時期があるんです。僕が伊達のことを描くことが観客に評価され始めていることもわかっていたし、それを役者の皆もやってくれている実感もあったんだけど、今の青柳の話を聞いていいなと思ったのは、それは僕の経験や体験でしかないんですよね。役者たちはいくら僕のことを知ろうとしても、それを体験できるわけではないから、言葉で知ることしかできなくて。「最初から最後まで、それは言葉なんだよね」っていうのは、いかにも役者らしい言葉ですね。

 

青柳 共感からは何も生まれないとずっと思っているんですけど、感情みたいなことも別に必要がないと思っていて。感情が先行することなんてありえなくて、やっぱり言葉や、情景、それを想像する――何ですかね?

 

藤田 松本で公演したときにもそういう話をしたよね。「感情がやりたくて上演してしまっている演出家や俳優って結構いるよね」って話を常日頃からしてるんですけど、感情が最初にあってしまうと、どうにもこうにも身動き取れなくなってくんじゃないかと思うんです。まずは言葉であるとか、言葉の中にある情景に出会ってみたときに、そこで思ったことがやがて感情になるのであれば信じられるけど、最初から感情をやろうとすると行き詰まる。マームとジプシーは感情みたいな側面で語られることも多いけど、その順序はすごく守ってきた10年だったなと思います。書かれた言葉や、僕が出したい音にまずは出会って、そのあとに感情がある。ただ、役者さんっていうのはすごく変な生き物で、青柳は今そういうふうに話してたけど、青柳に対して「今、感情でやろうとしてない?」と感じることだってあるんですよ。最初から感情の塊みたいな表情で舞台にあらわれて、感情をやって去るみたいなときもあるけど、それはどうバランス取ってる?

 

青柳 その意識はないんですよね。そのズレを演出家がコントロールしてくれる。

 

――今の話は、何が大事かっていうことですよね。「これを描きたいから、このシーンではこの感情に至ってください」という演出をつけてるわけではなくて、その瞬間に何かが発生するように演出をつけているってことですよね。しかも、演劇というのは公演期間中には繰り返し上演されるわけで、その期間中にどうやって反復するのか、と。

 

藤田 まさにそれで。大学生のときには色々映画を観たりするけど、そこで映画に嫉妬する人は演劇を続けられないと思うんですよ。僕が何で映画に嫉妬しなかったかというと、映像と演劇は役割が違うと最初からわかってた感じがあって。映像作品に出る俳優には現場で瞬発力が求められるわけですけど、その瞬発力をカメラが抑えてくれていて、機械がその瞬間を永遠にループしてくれる。でも、演劇は基本的に再現だと思うんですよね。演劇の俳優には基本的に再現が求められて、そこに演劇の面白さがあると思うんですけど、そこで僕が編み出したのが「リフレイン」って言葉だったんです。演劇は再演を繰り返していて、そこで何を再び演じるのかっていうことがテーマでもあるんですけど、そこで感情から再現してしまうのかっていう話なんですよね。感情から再現するというのは、大変なことですよ。「前回はここまで怒ってたから、次もここまで怒ろう」と決めるのって、とても大変なことですよ。夫婦喧嘩があったとして、「こないだはここまで盛り上がったから、今回もそこまで行こうよ」っていう夫婦喧嘩はありえないじゃないですか。そうやって感情からアプローチするとおかしなことになっていくし、作品もうまく再現されなくなっていく。演劇における再現というのは、何がどう物理的に大事かということがきちんと話しあわれているかどうかだと思うんですよね。まずは物理的に言葉に出会って、その先に出会った感情がある。そういう再演を繰り返すことをマームとジプシーは求めてきたんだと思うけど、そのへんはどう思ってる? 今、「映像の俳優と演劇の俳優は仕事が違うよね」って分けちゃったけど、演劇の俳優だって一回の舞台の中で瞬発力を求められたりする。そこはどう対峙するんですか?

 

青柳 また「かっこつけたことを」と言われるかもしれないですけど、感情というのは観客が感じるものであって、こちら側の人間がどれだけ感情を発露したところで、何も受け取られないわけですよね。 だからすべて観客のために舞台上のことが進行している。そういうことしか意識しないです。

 

藤田 極端に言うと、観客や演出家にとって、役者というのはただのオペレーターでしかないんですよね。役者さんはいきなり「役を演じるからそれを観て」みたいな態度を取ったりするけど、開演から終演まで作品をオペレーションしてくれる人でしかないから、そのオペレーションさえ上げてくれればいいぐらいのことを言っていたこともあったんです。

 

――青柳さんは「観客が受け取るものがすべて」と言い、藤田さんからも「役者というのはオペレーターだ」と言うわけですけど、それだけなのかということも思うんですよね。たとえば、おととい郡山公演があって、明日には札幌公演があるわけですけど、こういう合間の時間が落ち着かないってことを青柳さんはよく話しますよね。その落ち着かなさって、台詞を言うだけのオペレーターって考え方では説明がつかない気がするんですよね。

 

青柳 こんなふうに舞台に立つのは、気狂いでしかないなとも思います。普通、人ってこんなことしないですよね。

 

藤田 そうだよね。あらためて、人の前で何かすることを仕事にしているというのはやっぱり変だなと思います。だって、日本は景気が悪いとはいえ、違うごはんの食べ方だってできるわけじゃないですか。俳優って何でそんなことをしようとするんだろうね?

 

――でも、それって藤田さんにも言えることですよね。どうしてそんなふうに言葉と取り組み続けているのか。今回の公演であれば川上未映子さんの言葉を上演するわけですけど、未映子さんの最初の詩集が出たのは10年前で、マームとジプシーが旗揚げされたのも10年前なわけですけど、その当時はどんなふうに未映子さんの言葉を読んでましたか?

 

藤田 当時は演劇を辞めるかどうか悩んでいた時期で、とにかく悶々と過ごしてたんだけど、装丁を見て川上未映子さんの詩集を手に取ったんですよね。それを読んだときのことははっきりおぼえていて、こんなふうに言葉を自在に操れて、こういう質感を持たせることができる人って世の中にはいるんだなって思わされたんです。あと、当時の僕は、自分が男性性であることを悔しく思うこともあったんですよね。女性作家の中には「男性にはわからないでしょ」っていう態度が見えてしまう人がいて、そう思われることがつらいなと思っていた時期があるんですけど、未映子さんの言葉には全然それを感じなかったんです。最終的には男性なのか女性なのかわからない域に達していて、「これが違和感なんだ」ってことを生物としてすごく格好良い感じで言われている気がした。ただ、それと同時に「この人はこれを文字にしたんだな」っていうことも思ったんです。僕はこどもの頃から演劇が好きだったし、自分にふさわしいのは演劇だとずっと思ってたんですけど、演劇は紙に印刷したい言葉を描くわけじゃなくて、身体に言葉を書き下ろすわけですよね。

 

――よく話されてることですけど、藤田さんは俳優に台本を渡さないわけですよね。

 

藤田 それは最初から避けてますね。俳優には紙に印刷された文字として言葉に出会って欲しくなくて、僕から出た音として言葉を覚えて欲しいから、口伝で俳優たちに言葉を伝えるんです。でも、未映子さんは紙に印刷された言葉を、こういう音やリズムで書いたんだなと思ったんですよね。その文字には最初から音が聴こえていたから、すさまじいなと。

 

――言葉と音っていうことで言うと、小さい頃の藤田さんは自分で文字を読むわけじゃなくて、お母さんに読み聞かせをされてたわけですよね。

 

藤田 僕の母親は、僕が中3になるまでずっと読み聞かせをしてたんです。僕は10歳から演劇をやっていて、そのときは子役だったから、台本を家に持って帰るんですよ。その台本を母親が読んでくれて、その台詞を暗記するってことを中3までやってましたね。高1からは「自分で小説読んでいいよ」っていう権利をもらえたので、そっからむさぼるように活字を読みましたけど、それまでは許可されてなかったんですよ。国語の時間とかも、「当てられても読まなくていいんだよ」って言われてましたね。「文字でしょ、それ」って。

 

――それが印象的だなと思うのは、未映子さんは「自分は黙読ができなかった」とエッセイに書かれているんです。小学校に行くまではずっと声に出して読んでたらしいんですよね。でも、小学校に入って国語の授業があるときに、「ここからここまで読んでください」って先生に言われて、皆が黙って読み始めたことに愕然とした、と。それで言うと、青柳さんはずっと人の言葉を発語する役割をしてきたわけですけど、青柳さんはどう言葉とかかわってきたんですか?

 

青柳 幼少期のことですか? それは特に。

 

藤田 なんだっけ、『りぼん』しか読んでなかったんだっけ。

 

青柳 読んでないです。こっちの親と全然真逆で。

 

藤田 でも、今は小説をめちゃくちゃ読むよね?

 

青柳 藤田君には「小説とか読むから、俳優は」とはよく言われます。小説、読まないんですよね?

 

藤田 最近読めなくなってきてますね。小説家の知り合いも増えてきて、この人の新作が発表されたら読まなきゃいけないっていう小説は読みますけど、それ以上は読まないですね。最近は物理の本とか、図鑑ばっか観てます。

 

――ただ、未映子さんの小説に関して言うと、交流があるから読んでいるわけではないですよね。それは二人の中で、「未映子さんの書いたテキストは読まなければ」という気持ちがあって、それで2013年から未映子さんの言葉に取り組み続けてきたんだと思うんです。どうして未映子さんの言葉に取り組まなければと思ったのか、それぞれ二人に伺えますか?

 

藤田 これは青柳と一致してる部分もあると思うんだけど、26歳のときに僕が戯曲賞をもらったときに、自分の言葉以外の言葉を発見してかなくちゃいけないってことで焦ったんですよね。このまま自分の言葉だけをやっても自分は飽きられる一方なんじゃないかと思って、そこからとにかくコラボレーションを増やしたっていうのがマームとジプシーの流れとしてもあるんだけど、そこでまっさきに出会いたかったのが未映子さんの言葉だったんですよね。未映子さんとかかわっていると、未映子さんがどういうふうに言葉とかかわってる人なのか、どういうふうに葛藤してる人なのかってことも見えてくるじゃないですか。これは穂村さんにも共通することで、未映子さんや穂村さんの言葉に対する向き合い方を見ていると、思ってもないことをしゃあしゃあと書いている小説家がいるってこともわかってくるんですよね。そこは青柳とも共通してるんじゃないかと思います。

 

――青柳さんとしては、未映子さんの言葉はどんな存在ですか?

 

青柳 やっぱり、私はすぐ忘れちゃうんですよね。言葉というのは言葉でしかなくて、すぐに忘れてしまうのが一番怖い。2010年に未映子さんの「戦争花嫁」が『早稲田文学』に掲載されたとき、「ああ、この言葉を忘れてしまわないようにしよう」と思って書き写したんです。

 

藤田 『早稲田文学』を買えない経済状況だったとかじゃなくて、書き写してたよね。

 

青柳 言葉というのは言葉のままだから、結局忘れるんですけど、おぼえると一生おぼえている。

 

――それはもう、一生おぼえている言葉になってる?

 

青柳 未映子さんの言葉は、一生おぼえている言葉になってますね。

 

藤田 青柳はかなり記憶力がよくて、一度言葉に出したら台詞を暗記できるんです。口伝で役者と稽古するってことも青柳がいたから可能になった部分もあるんだけど、青柳の中にはどんどん言葉が留まってくれるんですよね。今回のツアーだと6篇の演目があって、それは全部やると2時間半ぐらいになるんだけど、それを全部おぼえてる。それぐらい記憶できるんですよね。ただ、話を聞いていると、まったく入らない言葉もあるらしくて、「そういう差別があるんだ?」と思って面白かったです。つまり、彼女の中でおぼえる価値なしみたいなカテゴリーもあるんですよね。

 

――明日と明後日の公演を観ると、「こんな量の言葉を記憶できるんだ?」と愕然とする部分もあるとは思うんです。ただ、そういう記憶能力としてもすごいなとは思うんですけど、青柳さんが「未映子さんの言葉は一生おぼえている」と言うとき、それは「一度暗記したから、いつ何時でも正確に言える」ということではないんじゃないかって気がするんですよね。その「おぼえている」というのは何を指しているんでしょうね?

 

青柳 おぼえるというより、もともと知っていた言葉、のような感じ、というほうが近いのかな。

 

藤田 今扱ってる川上未映子さんの詩は、今の青柳の年齢と近い年齢のときに書かれた詩もあるんですよね。そういうシンクロもあるのかな。俳優とか女優とか関係なしに、女性としてのシンクロみたいなこともある?

 

青柳 あると思うんですか?

 

藤田 どうなんだろうなと思って。先月末に穂村弘さんと名久井直子さんとコラボレーションした作品を上演したんですけど、穂村さんが『みえるわ』の渋谷公演を観にきてくれたとき、「未映子の言葉のほうが、僕の言葉よりもっと青柳さんの中に入ってる気がした」と言ってたんですよ。

 

――おっしゃってましたね。「僕の言葉より、抵抗がなく言葉が出てきてる感じがする」と。

 

藤田 それはなんとなくわかる気がしたんですよね。それは穂村さんが男性であるとかってことだけじゃなくて、シンクロする部分があるのかなと。

 

青柳 私自身がシンクロするというよりも、穂村さんと未映子さんを比べると、穂村さんの言葉には実体がない気がするんです。でも、未映子さんの言葉にはすごく身体みたいなものがあって、それが身体を持っている人間に結びつきやすいんだと思います。

 

藤田 たしかにね。穂村さんの言葉は、人が存在するかどうかもわからないところを俯瞰しながら書いているような気もする。部屋にいる自分を書くとしても、その部屋の間取りを50メートル上から俯瞰して、その自分というコマも動かしている気がする。これはカメラがどこにあるかってことだと思うんだけど、未映子さんの言葉は、「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」みたいに生命としての塊みたいなことを書いていても、カメラは体内に内蔵されてる気がして。そのカメラの設定の仕方が、ぞくっとするぐらい格好良いなと思います。

 

――今回の公演はマームとジプシー10周年ツアーの第2弾で、上演する候補は6篇ある中で、公演ごとに3篇を選んで上演しているわけですよね。あるいは、去年の夏に行われた10周年ツアーの第1弾のときも、4つの作品を携えて旅をして、必ずしもすべての演目が上演されたわけではなかったですよね。1演目だけに絞ってツアーをするほうが絶対に楽なのに、どうして何作品かで旅をすることにこだわっているんですか?

 

藤田 やっぱり、自分が伊達にいた頃に観るものを選択できなかったことに対して、僕は納得がいってないんですよね。伊達にいた頃は、伊達にやってきた演目を観るしかなかったんです。でも、上京したら演劇を観れない日がないどころか、演劇を観れない時間がなくて。そういうことを考えたときに、僕らのツアーのチラシを観たときに、「4作品あるらしいけど、私は夜ってものをテーマにしたこの作品を観に行こう」ってことで選択してもらえるようなことができないかってことを夏のツアーでは考えていて。極端に言えば、必ずしも演劇を観たい人じゃなくてもいいと思っているんですよね。マームとジプシーのことは全然知らないけど、suzuki takayukiのことは『情熱大陸』で観て知っていたっていう人が、suzuki takayukiの服を観るためだけに来てもいいと思うんです。そうやって演劇の中に観る要素を増やしていくってことは、上演時間内に観るものを選べるようにすることでもあると思っていて、「こう観てください」「ここで泣いてください」みたいな演劇はなくなっていいと思うんですよね。そういうものはテレビやネットフリックスで見れちゃうじゃないですか。これからの時代、そうやって再生してくれるものはいっぱいあると思うんですけど、上演時間の中でいろんなことを感じることができるのが演劇だと思ってるんですよね。川上未映子さんのことが好きで『みえるわ』を観にきて、金輪際マームとジプシーを観ない人がいたとしても、その人は上演時間中に川上未映子さんのことを感じることができるわけですよね。そういうことに賭けたいなと。ツアーをするときにも、さっき新千歳空港に着いてから青柳と話したことが明日のラインナップに影響してもいいと思っていて、そういうことがその土地を訪れた意味に繋がっていけばいいかなと思ってますね。

 

――藤田さんはずっと、「どうすればその土地やその土地の人たちと出会うことができるのか」ってことをずっと考え続けてますよね。ただ、実際にその土地の観客に向かって発語するのは青柳さんですけど、観客に向かって発語するということのありようというのは、ここ数年のあいだに青柳さんの中で変わってきた部分があると思うんですよね。それは今回のツアーの中でもすでに変化してきてるように思うんですけど、そのことについては今どう思っていますか?

 

青柳 昔は、どこでやったとしても変わらないと思ってました。海外でも、東京でも、変わらないと。「海外と日本との違いは?」という質問があまりに多すぎて辟易としてたというのもありますが、今思うのは、「何も変わらない」というのは「すべてが違う」ということと同じでもある。そこにいるあなたがいなかっただけでも違うかもしれないし、その席じゃなくてひとつ後ろの席にいただけでも違うかもれない。すべてが違いますね。

 

藤田 僕は俳優の気持ちがまったくわからないんですよね。俳優は舞台上から観てるから、基本的には観客の皆さんの顔を観てるわけじゃないですか。でも、僕はずっと観客の後頭部を観てる職業だなと思ってるんですよね。だから、青柳がみてる世界――青柳が自発的に観てるというより、僕の演出によって青柳がその世界をみてるかもしれないけど――その舞台からみえる風景っていうのは、演出してても結局知らないんですよね。それなのに、青柳が舞台上からみてるってことで成立してることを僕は表現としているわけだから、そこが不思議な気持ちなんですよね。未映子さんは今回のツアーに「みえるわ」という題名をつけてくれたんですけど、それは僕らの問題意識を見透かされてるような気がするんですよね。

 

青柳 昔はどこでやっても変わらないと思っていたというのは、自分がここに立って見せたいと思うものをそのまま観客に見せることができると思ってたんです。でも、他の人は私がみているものを絶対にみることができないし、観客がそれぞれ何をみているのかということも私は知ることができなくて。それがほとんどなんだと思ったんです。

 

藤田 だから、誰も何もみえてないんだよね。自分にみえているものがすべてなんだけど、でも、ほとんどの目がみてるものを自分はみることができなくて。それが不思議だし、演劇が楽しいところでもあるんだと思います。

(司会・構成=橋本倫史)