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interview #4 桒原弘子さん



藤田 桒原さんにとって、これまでの人生を振り返ってみて、ターニングポイントというか、そういうのはありますか。それは、いつですかね。

桒原 そうですね。子どもが産まれて、子どもの関係で周りがすごく広がって、いろんなことができるようになった、と。

藤田 お子さんが生まれたのは、いつですか。

桒原 30超えてたと思うけど。2人だめにしてるんです。それでもう最後、って思ったらすっごいつわりで。もうね、みんなに「諦めろ」と言われたんですが、必死でお医者さん行ったりなんかしながら生まれた子なんで、とにかくこの子と一緒に健康で、一緒に学んでいこうって思ったので、それでものすごく変わりましたね。

藤田 そうなんですね。

桒原 だから、その子を見た時に、もう小さくて、生まれた時は。もちろん保育器で。そういう状態だったんですよ。

藤田 その病院はどこですか。

桒原 そこの堀川。えっとね、堀川の下総通りの角っこ。今は焼肉屋さんになっていますが。

藤田 へえ。

桒原 そこに府立と、それから東京の何大学とおっしゃったか。その先生と、2人で診てられて。とにかく、すごい医学的な設備もあるということで。なんか不思議なご縁で親しくさせていただいてまして、子どもが行った幼稚園に、先生のお子さんも通っていらっしゃったと聞きました。


藤田 桒原さん自身は、どこで生まれたんですか。

桒原 えっと、中京区。中京って、今、御池通りってすごく広くなってますね。道幅がもう狭かったので、疎開によって、つぶされまして。それで、祖父が、借家を家持ってましたから。それに入れてもらったりしたんと、3歳ぐらいか何かの時に、丁稚さんの不始末で、火事を起こしまして。

藤田 生まれたお家が、燃えた?

桒原 燃えました。

藤田 ご両親は、なにを?

桒原 父親は染織です。最終的には、ろうけつ染めの関係みたいなのをやっていて。京都市の賞をもらったりもしているようです。その着物は貰いました。

藤田 お母さんは?

桒原 何もしてないです。父親は北海道のほうから出てきて――旭川。

藤田 旭川。それで京都に? お母さんは――

桒原 純粋な京都です。

藤田 3歳の時に、お家が火事でなくなって。つぎは、どこに?

桒原 また、中京です。おじいさんが持ってました借家がありましたから。

藤田 貸家を?

桒原 中京にいてて、戦争で厳しなってきたから、危ないから、どこかって考えてた時に、ちょうど祖父の家の隣に工場があり、そこの娘さんが、こっちの北の方に住んでおられ、借家があるからこっちへ住まないかということで、北の方へ来たんです。それからずっと、北区。幼稚園も小学校も、中学も高校も、ずっと。

藤田 じゃあ中京区に住んだのは、短かった――

桒原 でも、よく憶えてます。引っ越しまでの。家は、まだありました。中京で、最後にいた家は。

藤田 北区に移って、幼稚園と小学校――まだ、戦争の時代ですよね。

桒原 そうですね。幼稚園は家の近くでしたから、空襲警報が鳴ったら、すぐ走って、家へ帰ってました。警報はなりますけど、落ちたりそんなんはなくて。ただ、家の前や賀茂川堤の方から西とか、下のほうを見た時に、ものすごく赤かったりとか、みんなが燃えてる、っていうような話を聞いてます。小学1年生で、終戦です。

藤田 そうか、なるほど。



桒原 周りが畑でしたから、もう好きなように遊んで、賀茂川へ行って水遊びしてっていう、そういう。ざるでゴリ捕って――

藤田 ゴリ?

桒原 ゴリってこんな、小魚。京都独特かもしれないですが。捕れたんです、よく。そんなんを捕って、賀茂川の上にジャーっと並べて、日干しにして遊んだりとか。今思うと、すごいことしてたなと思いますけど、そういう遊びでしたね。で、夕方になると、大人の人は床几を出して、賀茂川堤防の下で将棋したりとか、やってましたね。

藤田 そういう場だったんですね。その頃は、もうお父さんは染めものを?

桒原 戦争に行ったあと――

藤田 どこへ戦争に?

桒原 海軍だったんです。横須賀へ面会に行ったことが、何回かあって。みんなで。ひとつだけ憶えているのは、帰りの汽車に乗る時に、汽車とホームの間、空いてますよね。そこへ、ストンと落ちたんです(笑)。

藤田 え!

桒原 ベルが鳴ってる時に。それでもう、大変やったんです。駅の人に、スッとあげてもらったんですけど。面会というと、それを思い出します。


藤田 京都から横須賀って、1日はかかりますよね。

桒原 そうですね。それで、お重にいろんなおにぎりとか、いろんな食べ物入れて、持っていった憶えがありますね。

藤田 お父さんは、海軍から帰ってきたんですね? 終戦して。

桒原 はい。それから、もうやっぱり染め関係のことでしたけど。襖の紙、ああいうのに糊のせて、なんかしてましたね。それは、うっすらと憶えてます。それからやっぱり着物が出てきて、着物のほうに行ったんだろうと思います。

藤田 中学校も――

桒原 賀茂川の、沿線。だから、通学路が賀茂川堤です。その向かいの植物園が、アメリカの軍に接収されてまして、そこをジープが走っていくのが見えました。家がいっぱい建ってて、軍属の子どもたちがたくさんいたんです。

藤田 それを、遠目で見てたんですね。


桒原 中学2、3年の時に、私、いろんなとこで、お話しやら聞くの好きだったんです。そんな――お話しとか、そういう会があると行って、紙芝居見たりとか――みんなの前で、その見てきたことを話すことを、よくやったんです。で、その時の、先生に、「児童劇団がある。募集してるし、受けてみいひんか」って言われて、それで受けました。

藤田 へえ。受かったの。

桒原 受かったんです。そこが、今の京都放送ですね。近畿放送。ちょうど今の京都新聞の、向かい側のへんに、放送局があったんですけど。そこでいわゆる、NHKがいろいろやってますよね。子どものドラマをやってたんです、連続もので。京都の放送局もやってまして、それを3作品ですね。3、4年かな。

藤田 出演してた。

桒原 連続ドラマの、いわゆる一番初めは、主役の女の子。なんか知りませんけど、やってたんです(笑)。それ、大丸の提供やったんです。

藤田 デパートの。

桒原 放送の様子っていうか、ものすごく大きいパネルが出てたことあります。ほんでみんなに言われました(笑)。

藤田 え、すご(笑)。3年連続ってことは、高校生まで?

桒原 高1から高3まで。

藤田 ご両親は、応援してくれてたの?

桒原 応援かどうかわかりませんけど、そんなにワーワー言うたこともないですし。

藤田 高校時代はじゃあ、そのドラマで忙しかった。

桒原 そうですね、学校でも言われたし、新聞のラジオ欄にもようでてましたから。

藤田 そんな感じ!?

桒原 収録もね、曜日が決まってたんですよね。もう忘れましたけど。

藤田 そうですよね、学校もあるし。

桒原 初日の録音が、「やっほー」、「おーい」かなんかで。こう、こだまが帰ってくるような感じのところが、初めに出てくるんですよ。それを録るのに、いろんなところから録音してやられたんです。結局、夜12時か、そこらぐらいまでかかって。私、初めて夜中までそういうことをして、「ひえー」と思いながら、帰った憶えがある。それから、そういうことはありませんけど。

藤田 そういう高校時代。高校は、どのへんに――

桒原 公立高校。それはもう、すごい自由な高校で。だから私が入った時は、東大・京大に行く、すごい秀才がたくさんいた。

藤田 へえ。

桒原 学校では、放送部にいまして。それで昼の担当とかしたり、文化祭とかなんかあると、司会やったりしてました。周りから、おされてやるような雰囲気でしたね。私はあんまりね、いわゆる自分が本当にやりたくてやったというより――今思えばね、自分がすすんでしてたらもっと、違ってたかなと思いますけど。

藤田 かなりなんか、桒原さんって。

桒原 いや、モテたんです(笑)。

藤田 モテそう(笑)

桒原 1年生からね、家までついてこられたりしたんです。ストーカーで。なんでか知らないですけど。

藤田 3年間、ずっと? モテてた。

桒原 そうですね。机に、手紙とかいろんなもんが入ってたりとか。そういうのはね、あることですから(笑)。

藤田 あること。

桒原 だから、もうこっちがどうこうって言わなくても、周りから来てる、って感じだったですね。

藤田 こんなはっきりモテてた話聞くの、初めてだな。18で、高校は卒業したんですよね?

桒原 大学、行くつもりだったんですけど、まだその頃は、女の子は大学まで行かなくていいという時代だったんです。まあ、仕方ない。私らの周りでも、短大行く人も少ないし。大学まで行く人も、そんなにたくさんはいなかったです。


インタビュー:2022年10月18日

撮影:藤田貴大

荒木穂香(ひび) 柳瀬瑛美(ひび)

協力:京都芸術大学舞台芸術研究センター




-interview #5 へ続く

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