MUM & GYPSY 10th anniversary year

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言葉の出口 

2014年に発表した、名久井直子さんへのインタビューを基にした作品のなかで、こういうテキストがあった。

「ここまでやってきましたが、みなさんも、もうおわかりかとはおもいますが、名久井さんってひとは、名久井直子さんってひとは、言葉を持っていません。だれかが書いたもの、描いたものに、手を加えているだけで、言葉を持っていません。でも、名久井さんもそうだけれど、じゃあわたしは?
わたしもそう、言葉を持っていません。誰かが書いたものを喋るだけの、女優だからです。
いま、はなしている、これだって、わたしの言葉ではないわけです。
言葉を持たないわたしたちは、でも、書かれた言葉を、描かれた言葉を、名久井さんは、デザインします。わたしは、発語します。だから、言葉を持たないわたしたちは、言葉たちの出口でもあるわけです。
わたしたち、という、出口から、言葉たちは」

いま、読んでみると、とても極端なことを、しかもすこし無理矢理に、彼女の仕事と俳優の仕事を結びつけて書いてしまっているようにもおもうけれど。ただ、そのとおりだな、と時間がすこし経ったいまでも、たしかにおもう。言葉を扱うひとを二種類に分けてみたとしたならば、言葉を生むひと、そして、言葉の出口になるひと。生まれた言葉は生まれたままだと外に出ていくことはないわけだから、出口が必要だし。生まれる言葉がなければ、出口もない。このふたつの関係が成立したときに初めて、言葉はひとに届くのかもしれない。みたいなことをたぶんかんがえていたのだとおもう。なので、ありとあらゆる言葉をデザインしていく彼女を観察しているうちに、俳優というひとたちとの関わり合いが明らかに変わったようにおもう。ぼくが書いたものを演じてもらうという意識はほとんど消えて、出口になってもらう。同時に、出口がなければ、ぼくの言葉なんて、どこへも出ていかないし、出口がどういう出口であるかで、ぼくの言葉なんて、ぜんぜん変わってしまうくらい華奢なものだということもわかった。つまり、書いたとか、生んだとかは大層なもののようだけれど、じつは優れた出口がなくては、その素晴らしさも錯覚だった、みたいなことになりかねない。

生まれた言葉の先に、出口があって、言葉が外へでていって、その言葉を拾い集めて、発見していく無数のひとたちと、これからの時間を、つくっていきたい。
この場所は、これからの時間を、企む場所でありたい。ここにこそ、未来がある。

マームと誰かさん ​穂村弘×マームとジプシー×名久井直子