MUM & GYPSY 10th anniversary year

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藤田貴大+青柳いづみ「『みえるわ』を終えて」

2017年度は、マームとジプシー旗揚げ10周年となる節目の年でした。2017年夏には4作品を携えて全国を巡る10周年ツアーを行い、その第2弾として『みえるわ』という作品も全国を旅しました。3月が終わり、4月になればマームとジプシーは11年目を迎えます。新しい年度を前に、『みえるわ』のことを振り返りつつ、11年目に向けた展望を訊ねました。

 

――マームとジプシー10周年ツアーの第2弾『みえるわ』ですが、1月31日に渋谷で初日を迎えて、3月11日に沖縄で千秋楽を迎えました。40日間、全国10都市11公演の旅でしたが、それはどんな時間として残っていますか?

 

藤田 こういう旅を終えたあとは「あっという間だった」と言いがちだけど、あっという間だとは思わなかったですね。10月に『IL MIO TEMPO』が終わって、穂村弘さんと名久井直子さんとコラボレーションした『ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜』(以下、『ぬいぐるみ』)の稽古が始まったんですけど、あの作品で考えたことと『みえるわ』で考えたことのテーマは僕の中で無関係じゃなかったんですよ。半年間じっくりかけて、青柳と一緒に表現全体のことを考えていた感じがあって、疲れましたね。『ぬいぐるみ』も『みえるわ』も青柳の一人芝居だったから、ずっと青柳としか稽古してなかったんですよ。こんなに青柳とだけ稽古してたのって、この10年で一番長いよね?

 

青柳 『ぬいぐるみ』の段階で「青柳といるのもう疲れた」って言ってたね。

 

藤田 一緒にいるのも疲れるし、人の言葉を浴び続けるのは疲れるんだなと思いました。『IL MIO TEMPO』以降は、自分以外の言葉をずっと扱っていたんです。人の言葉をどう扱うかっていう楽しさはもちろんあるんだけど、今回のツアーだと、沖縄あたりで結構疲れました。未映子さんの言葉って、毒が含まれてるなと。

 

――毒が含まれている?

 

藤田 毒っ気があるとかじゃなくて、毒が含まれてる。未映子さんの言葉は自分のスタンスに返ってくる部分がすごく大きくて、年を重ねて失ってしまった時間を掘り出される感じがあるんです。「20代の頃はもっと『自分ひとりだ』と感じてたかもしれないな」とか、そういうことに引き戻される感じがする。

 

――たしかに、言葉が身体の中に留まって、その言葉について考えさせられる感じはありますね。

 

藤田 そう、身体の中に留まるから、言葉に酔わされる感じがあるんですよね。それは僕だけじゃなくて、一緒にツアーをしていた全員にあった気がします。ツアーの過酷さで疲れたとかってことだけじゃなくて、未映子さんの言葉が焚きつけるものがあったような気がしていて。未映子さんの言葉を聴いたあとに町に出ると、いろんなものがすごい解像度で見えてくるから、よくも悪くもいらいらするんです。それが変な体験でしたね。

 

――今回は札幌から那覇まで日本各地で上演してきましたけど、旅として振り返るとどういう印象がありますか?

 

藤田 どの土地も素敵だなと思ったし、どの土地にもテーマがあると思ったんだけど、東京が一番居心地いいなと思いました。こうやってツアーに出ると「住むならどこがいいか」って話に必ずなりますけど、ピンとこないんですよね。

 

青柳 それはすごくわかる。

 

――でも、藤田さんは初めてフィレンツェに行ったときに言ってましたよね。「ここに住んで作品を作りたい」って。

 

藤田 そう、フィレンツェは住みたいかも。

 

青柳 なんだ、住みたい場所あるんじゃん。藤田君はいつもそういうところで裏切っていくんだよね。沖縄でも皿とか買ってたしさ。

 

藤田 皿は楽しんだけど、東京がいいなと思いました。これも未映子さんの言葉が焚きつけてる部分があると思うんですけど、「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」とかを聴いていると、あの詩がどの町を舞台にしているのかはわからないけど、居づらさみたいなものはすごく感じるんです。そこに「今日現在この町にはひとりも友達がおらん」っていう言葉が出てきて――「友達」って言葉はすごく残酷だなと昔から思ってるけど――どの土地に行ってもそういう居づらさみたいなのを感じてましたね。「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」や「治療、家の名はコスモス」を聴いていると、コミュニティの中で生きなきゃいけないということをある意味では拒否して、ひとりで居られる町に行くっていう感じがすごくある。どこにいても自分の居場所はなくて、自分の違和感は誰にも通じないのかもしれないという危機感があるんだと思うんです。未映子さんの言葉を読んでいると、その家族の中にいることや、その家の中にいることや、その学校の中にいることが永遠じゃないっていうことを、どの作品でも言っているような気がするんですよね。

 

青柳 未映子さんは結構頑なに言ってるよね。「これは私の話じゃない」って。その言葉には身体があるんだけど、それは未映子さん自身の「私」じゃないというのが変な感じ。私自身も、舞台上でしゃべっていてもそれは自分の言葉じゃないし、私のことでもないし――。

 

――台詞というのは常に私以外の誰かの言葉ですよね。でも、そういう言葉とも違う質感があるということですか?

 

青柳 たとえば『ロミオとジュリエット』であれば、私が発語していたのはやっぱりロミオの台詞だったと思うんです。それはロミオの言葉だし、ジュリエットの言葉だというのがそれぞれある。でも、未映子さんの言葉は、「じゃあそこにいたのは誰だったんだ?」というのがわからなくなる。

 

藤田 未映子さんが書いている小説は未映子さん自身の体験ではないし、詩も小説も未映子さんがつくりあげた構成物なんだっていうことはわかるんだけど、それを黙読している段階ですごくほんとうのことを言われている気がするのは何でなんだろう?

 

青柳 そこで書かれているのは誰のことでもないのに?

 

藤田 そう、誰のことでもないはずだし、そこに書かれていることは未映子さんのことではないというのはもちろんわかるんだけど、すごくほんとうのことを言われている感じがする。あれは何なんだろう。それがね、ただ嫉妬する。どうして詩や小説という表現の中でそれができるのか。僕がやっている表現のほうがそれができるはずだと思うんですよね。だって、舞台上には実際に人がいて、生で感情を紡げるから。

 

青柳 そこにほんとうがあるから?

 

藤田 舞台上なんてほんとうだらけで、嘘をつくほうが難しかったりする時間もある。でも、文字にはある程度距離があって、当然そこには身体が見えているわけでもなくて。その無機質な世界というのはほんとうのことを言うのに向いていない媒体でもあるはずなのに、未映子さんの言葉は肉体として迫っている感じがすごくある。

 

――舞台というのは、書かれた言葉に比べるとそういう迫力を持ちやすいですよね。実際にそれを発語する人がいて、そこに音響や照明があり、どういうトーンで観客に伝えるかも選べるという。でも、そういう迫力を書かれたテキストとして携えているのはすごいことだと思います。

 

藤田 それは正直、未映子さんしか作れないんじゃないかと思いますね。やっぱり、演劇サイドの観点から言って、「なるほど、それが小説ですね」みたいな形式っていうのはあるんですよ。でも、未映子さんの言葉はそこからはみ出してくる何かをすごく感じる。でも、前にインスタグラムで言ってたけど、未映子さんって「時間があれば書けるやろ」みたいなことを言うじゃないですか。

 

――書かれてましたね。「24時間が自分のためにあったあの頃、今思うとなぜ書けないなんてことがあるだろう、と思うのだけれど、あのときはあのときで、たいしたことではないだろうけれど、それなりに書けない理由もあったんやろな。技術とか」と。

 

藤田 それを読むたびに怒られているような気持ちになるんですよね。それで言うと、3月12日に未映子さんも来てくれた打ち上げがありましたけど、そこでも怒られてる気持ちになったんですよね。僕と青柳は毎年のように「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」を上演していて、そうすると強度はどんどん強くなるんだけど、その強度には危うさもあるってことを未映子さんは言っていた気がするんです。「あの詩って、そんなにいいことを書いてないから」って。

 

青柳 いいことって何?

 

藤田 つまり、未映子さんとしてはそんなにエモーショナルなことを書いているつもりはなくて、僕らが思っているより未映子さんは淡々とあの詩を書いていたのかもしれない。でも、上演をすることで新たに生まれる感情や強度があって、そういうところは危ういよなって言われたときに、めっちゃ怒られた気がしたんだよね。そうやって表現が強くなればなるほど絶対的になっていって、壁が強くなっていく――そのことを言われた気がしたんです。未映子さんの中では淡々と流れていたものがあったんだとしても、僕はそれを演出という形で昇華してしまう。それによって青柳のパフォーマンスも強いものになっていくと、 観客が受け取るものが「泣ける」とかそういう感想だけの危うさがあって、未映子さんはその危うさを言っていたんじゃないかと思うんです。

 

――この話には、書かれた言葉を発語することにつきまとう問題があると思うんです。未映子さんは「『詩の朗読にはとても意味がある』という考えかたより、『詩の朗読にはまったく意味ない、むしろ悪』ぐらいの考えかたのほうに、わたしの知りたいなにか大事なことが潜んでいるのではないかいなと、この4年くらいずっと思っている」と書かれてますよね。詩を上演するとなると、そこに潜んでいる感情や機微を表現しようとして、その結果エモーショナルなものになる。でも、言葉それ自身は感情を発露するなんてこともなくて、ただそこに書かれてあるわけで、そこにはギャップがあるということがあるんだと思います。

 

藤田 そこに対して、僕と青柳は走ってきたんだと思うんですよね。未映子さんのテキストの中にどういう感情が隠れていて、どう発露していくかがずっとテーマだったんです。ただ、それを考え続けていくと、「ここまでのことはできて当然だ」ということが出来てくる。そこから先に行くっていうときに、上演する詩を変えたり、あいだの言葉を選び直したり、自分たちなりに試みたんです(註:『みえるわ』ツアーでは、上演される候補となる詩は6篇あり、公演ごとに3篇を選んで上演された。また、詩と詩のあいだには、未映子さんの小説から抜粋されたテキストを青柳さんが発語した)。そうやって組み替えていかないと煮詰まる気がして、たとえ集客ができたとしても40日間東京でやり続けるべきじゃないと思ったんです。だから、この作品をツアーという形で上演するのは必然だったのかなと思います。

 

――それと関連した話でもありますけど、今回のツアーで印象的だったのは選択制を取り入れたことなんです。1篇目に上演する詩と3篇目に上演する詩は決めておくけど、2篇目に上演する詩を2つ用意しておいて、どちらを選ぶかは本番になってから青柳さんが選択して、スタッフはそれに合わせて音響や照明を組み替える。その選択制を導入するのも、「結局のところ上演前に演目を決めてしまっているのはどうなんだ」という違和感から生み出されたものですよね。

 

青柳 藤田君が最初にそれを言い出したときは、何を言っているのかよくわからなかった。異言語みたいな感じで、何を言っているのかほんとう にわからなかったよ。ずっとラテン語でしゃべられている感じ。

 

藤田 横浜公演のとき、独り言みたいに言い出したんだよね。「できるかな?」「できるかも」ってずっと言ってたよね。

 

青柳 しかもまずはじめに私が選ばなければいけないなんて。選ぶときの感じも毎回違ったんですよね。「これはどっちを選んでも全然いいな」と思うときもあれば、「こっちを選ぶしかない」と思うときもあるし、「候補にない詩を選びたい」と思ったときもあったし。

 

藤田 これはでも、出演者が青柳ひとりだから出来たことでもあって。移動中も一緒だし、ごはん食べてるときも一緒だから、上演中に何を思っていたのかをすごく話すんです。そうしたときに、そんなに青柳自身が思っていることがあるのであれば、上演中に思ったことを選ぶっていうことがあっていいんじゃないかと思ったんですよね。上演中に客席を観ていて青柳が思うことがあるんだったら、そのタイミングに青柳がどっちを選ぶかということをわかっていたほうが、こっちのパフォーマンスもいいなと思ったんです。

 

青柳 しかも、こっちの見方とそっちの見方は違うから。

 

藤田 そう、舞台上から青柳が見てるものと、客席の後ろから僕が見てるものは違っていて。でも、選択制をやってみてよかったのは、見てるものはさほど違いもしないんだなと思えたんですよね。選択制にすると、ケンカにもなりうるじゃないですか。

 

青柳 うん、ケンカになると思った。

 

藤田 でも、「こっちを選ぶだろうな」ってものを選んでいて、意外と一致してたんです。それが一致してたからよかったっていうよりは――これは根本的な話として、演劇は事前に決めたものを見せるわけですけど、決められたものを見せられるのはやっぱりつらいなと思ったんです。その場の感覚みたいなものは排除されて、ある程度整頓された世界を見せようとする。そこへの違和感はあったんですよね。だから、ツアーをしている中で「未映子さんにいてほしいな」と思うことがあったんですけど、どの詩を上演するかっていう判断基準が僕だけにあるわけじゃないなと思い始めたんです。どの演目を上演するかを選ぶときには「未映子さんだったらどれを選ぶか」っていうことが念頭にありましたけど、選択制を導入すると、青柳がそっちを選んだっていうことが大きい認証になる。そうやって青柳が選んだことに対して、僕に限らず、スタッフチームを含めて「そっちを選ぶか、じゃあそうしようや」みたいな感じになるんですよね。そういう雰囲気がこのチームに必要だなと思えたんです。

 

――選択制を導入した背景には、「どうやって今っていう時間に近づいていくか?」ということもありましたよね。舞台というのは一回限りのもので、その瞬間にだけ存在しうるもので、その日会場にやってきた観客に向けて上演されるものである。それなのに、結局のところ事前に決めたものを見せるだけだと、今って瞬間に向き合っていることになるのかという考えもあって、選択制を導入するに至った面もあると思うんですよね。ただ、演劇というのはそうやって今という瞬間にだけ存在しうるものだけど、未映子さんの言葉も穂村さんの言葉も、書かれた言葉は言葉として永遠にそこにあり続けるわけで、その差について考え続けた数ヶ月でもあったんじゃないかと思うんです。

 

藤田 そうですね。未映子さんや穂村さんが自分の表現を世に出すまでの時間というのはしっかりあって、穂村さんであれば短歌という世界の中で精査されるものがあるわけじゃないですか。そこで短歌や詩に求めているものはすごく明確だと思うし、すごくロジカルな世界にいる気がして。でも、演劇っていう媒体でどこをどう精査するのかっていうことになると、穂村さんの中ではすごく膨大なものになるから、「藤田君、どうやって決めてるの?」みたいな目を向けてくるんです。

 

青柳 『ぬいぐるみ』のときも、「このシーンを何で人に見せられるの?」ってずっと言ってたね。「これは絶対僕にしかわかんないもん」って。

 

藤田 穂村さんはそうやって言うけど、僕にはわかる。あと、『ぬいぐるみ』でやりたかったニュアンスはほんとうに重要だと思っていて、あの作品を皮切りに3月までやっていくことと繋がることだと思ってたんです。つまり、韻文を扱うことへの覚悟だと思ってたんですよね。穂村さんのエッセイだとか、穂村さんのお父さんの話だとか、ある面では意味が通っているものだけを扱って、穂村さんとコラボレーションしたつもりにはなりたくなかったんです。穂村さんってかなり不思議な人で、わかりやすい世界に対して厳しい目を向けている人でもあるし、穂村さんの作品にはグロいものもある。そういうところをやらずして、何がコラボレーションだって気持ちがあったんですよね。未映子さんの「水瓶」とかも、もしかしたら大部分の人はわからなかったかもしれないけど、僕の中ではあの渋谷の感じってわからないことじゃないんですよね。それは地方に住んでいた僕だとしてもわからなくはないはずだと思っていて、そのラインには全部持って行っているつもりなんです。でも、未映子さんにも穂村さんにも「これは観客に伝わるの? 大丈夫?」っていうことを言われるんですよね。『美術手帖』で対談したときも、「もっとわかりやすくして万人に受け入れられる編集だってできるはずなのに、マームはそれを選ばなくて、しかもお客さんがついてきてるからすごい」って未映子さんが言ってくれたじゃないですか。そのとき僕は「観客を馬鹿にしたくないから、僕がわかるっていうレベルで観てほしい」って答えましたけど、未映子さんも穂村さんもそのレベルの設定のことを心配してくれてるんだと思うんですよね。

 

――今の話と関連することかもしれないこととして、マームの活動は演劇の外側に広がってきた部分はありますよね。藤田さんがよく「演劇にはあまり興味がなくても、衣装だけを観にくる観客がいてもいい」という言い方をしますけど、普段は演劇を観ないけど、その作品に関わっている音楽家に、デザイナーに、作家に興味があるからということでやってくる観客はすごく増えてると思うんです。ただ、その一方で、マームの作品が語られる機会がすごく減ってきてる気がして。

 

藤田 ああ、そうですね。生意気なことを言うと、語る技術を持つ人が少ないんだと思います。

 

青柳 生意気! 藤田君、ほんとに大丈夫?

 

藤田 すごく優しい言い方をすると、僕がやりたいことのコンテクストが上がってきたときに、たとえば「演劇のことは語れるけど、ファッションのことは語れない」と思ってる人がいるんだと思うんです。実際に語れないんでしょうしね。あと、穂村さん的な言い方をすると、「マームを観に行く俺か?」と考える人が増えてきちゃってるのかもしれないですね。

 

青柳 「お客さんがおしゃれだ」とか「会場がおしゃれだ」とかの穂村さんがよく言うおしゃれ問題でしょうか。

 

藤田 もちろん僕自身はそういう線引きをしたいわけじゃなくて、誰だって観にきてほしいと思ってるんだけど、僕らに対して言葉をあきらめた人がいるんでしょうね。僕から言えば、僕らに対しての言葉をあきらめたとしか思わないんですよ。

 

――どう語られるかがすべてだとは思わないですけど、ただ、マームの作品に対する感想が「すごいものを見た」ということに尽きてきてしまっている気がします。

 

藤田 それが増してきてますね。未映子さんが言ってくれたのもそういうことだと思います。 強度が強くなればなるほど、そうなっていく。でも、僕は結構自分のために作ってるところがある。10 年目にしてそこに尽きることをやれているのが一番幸福なことなんですけど、「僕が一番観たいものを作っている」という態度が本当になってきてるんですよね。20 代の中盤あたりは、もうちょっと外の人に評価してもらわなきゃと思ってたのかもしれないけど、自分が考えていることがどれだけ具現化されるかに尽きてきてる。これは蜷川さんとも似ているところで、蜷川さんは劇評を書かれたらその新聞社に電話するんです。

 

青柳 どんな劇評でも?

 

藤田 よくない劇評を書かれたら怒るし、よい劇評はきちんと褒める。今回の『みえるわ』ツアーに関しては特に、それぐらいの気持ちでいたかもしれないですね。

 

――そんな中で、36通も『手紙』をチェックしてもらいましたけど。藤田さんは大阪で「これ、電波少年みたいですね」と言ってましたけど、ただでさえ過酷な旅をしている中で、僕はそれに同行して『手紙』を書き続けて、毎日のようにチェックしてもらいました。

 

青柳 この34通目の写真を見てると、「こんなとこまで行ったのか」って思うね。この写真の藤田君、すごく電波少年感がある。

 

藤田 この写真(28通目)とかね。

 

青柳 いや、それは演出家って感じがする。

 

藤田 じゃあこれ(31通目)は?

 

青柳 電波少年感、ある(笑)。しかもこれ、ビニル袋にぱんぱんに詰まってるのは海の生物のフィギュアでしょう?

 

藤田 そう。このときはもう、気持ちがギリギリだったよね。

 

青柳 あんなにフィギュアを馬鹿買いして、あのときの藤田君は狂ってたんだろうなと思う。

 

――そんなときもチェックし続けてもらって、手間も増やしてしまってましたけど、この『手紙』はまず最初に藤田さんと青柳さんが読んでくれてたんですよね。

 

藤田 でも、僕は青柳よりも「これで進めてください」って言うスピードがはやかったと思うんだけど、『手紙』に書かれてることは僕が思ってないことだからすごいなと思ったんですよね。僕の発言として書かれてることは僕が話したことなんだけど、それを橋本さんによって咀嚼されて違う意味が見出されていて。これがもしマームとジプシーの広報誌で、僕が校正を入れて僕の考えを反映させようとすると宗教じみてきちゃうと思うんだけど、橋本さんの中で咀嚼された言葉として違う観点になってるからいいなと思ったんです。あと、本で渡されるより自由だと思ったんですよね。これは一通ずつばらばらに届くじゃないですか。そうすると、二つ前の手紙で橋本さんが思っていたこととはもう違うかもしれないわけですよね。

 

青柳 そういうの、すごいあるよね。

 

藤田 一冊の本っていうのは精査されてあるもので、僕の『おんなのこはもりのなか』も、2年間という連載期間の中で移ろいがあるんだけど、一冊にまとめるときにトーンを合わせるじゃないですか。でも、この『手紙』はそういう作業をされていないもので、それがすごくいいなと思っていて。人って精査されていないものであるはずで、その意味ではすごく舞台っぽいなと思ったんですよね。文字として発表したり、映像として発表できる人たちっていうのは、精査してフィックスさせることができる能力を持っている人たちなんだと思うんですけど、僕はあんまりそれができないんです。今思っていることと、一ヶ月先に思っていることは違うかもしれなくて。その意味では、僕っていう人間性と演劇が近い部分がある気がするんですよね。そういう意味で『手紙』の作業はいいなと思っているところもあるんだけど、3月11日に公演が終わって、僕は完全に『タイムライン』のモードになってるわけですよね。でも、その最中も『手紙』は届き続けていて、ブログで書かれていたらもう終わってるかもしれないけど、この企画はすごく変な手間があるから、やっぱり半月は遅れる。その時差って変だよね。橋本さんは冒頭に「40日間」と言ってくれたけど、この企画が終わるまでは60日ぐらいあるわけじゃないですか。その時差の中に読んでいる人たちをいさせるわけだから、変な作業だなと思います。

 

青柳 この『手紙』を読んでいて思ったけど、わからないことなんてないんじゃないかと思います。上演を観てわからないってこともないし、橋本さんが書いていることが、藤田君の言っているように自分の思っていることとは違ったとしても、それがわからないってことはないし――でも、わからないってされてしまうことが多過ぎてしんどくなりますね。

 

――しんどくなる?

 

青柳 全然関係ないことかもしれない、けど、こないだテレビで女性タレントが集まって女子会をするという企画をみていて、そこに参加していた女性アナウンサーがぶりっ子だということですごい糾弾されてたんです。彼女にプライベートでこんなことを言われた、された、ってみんなが口々に言うんですけど、私は彼女のことがわかるし、そんなことで人が人を糾弾していいのかって思って悲しくなったの。それでもみんなに言わせたら私もじゃあぶりっ子ってことになるのかな。

 

藤田 その感覚はわかる。やっぱり、わからないものだってされることは悔しいよね。わからないってジャッジを下されることに対して「何でそんなことができるの?」って思ったりもするけど、僕は青柳よりも冷静で、「わかんないと思ったことをおぼえとけよ」としか思わないですね。でも、青柳はやっぱりそこは粘るわけだよね?

 

青柳 「何でわからんのや」って?

 

藤田 そう。でも、作家としてはそこを粘ってくれないと困るんですよね。言葉を託されているのは青柳だから、観客と作家のあいだにはさまって、青柳には粘ってほしいんです。

 

青柳 今の私は何を見ても何を読んでも感動しちゃうから、頭がおかしいんじゃないかと思うんですけど。でも、藤田君のほうが傷ついてると思います。「わからない」ってされるものに対 しての傷つき方。こないだ藤田君が「小学校のときに同級生の女の子が新品のキーホルダーをつけてきてて、それを他の子たちに馬鹿にされてたんだけど、それが本当につらかった」って言っていて、藤田君はそれを今でも悲しんでるわけですよ。

 

藤田 でも、どの作品を読んでも思うのは、未映子さん自身の悲しみがあったんだろうなっていうことで。未映子さんは自分のことを書いてるわけじゃないっていうけど、書いてると思う。もちろんそれが未映子さん自身の身に起こった出来事じゃないというのはわかる。でも、そこで書かれている感情に100パーセントマッチしている未映子さんの感情が見えるんですよね。

 

――この『みえるわ』という作品は、10周年ツアーの第二弾として企画されたものです。2017年度はマームとジプシー旗揚げ10周年にあたる年度で、4月からは11年目に突入します。『みえるわ』に向けて未映子さんが書き下ろしたテキストには「四月」という言葉があって、『美術手帖』での対談で未映子さんは「四月はポエジーとともにある、始まりと終わりが同時にある月っていう感じがしますね、年末とか新年なんかよりも。残酷さもあるしね。今回の公演は、三月ではなくて四月だっていうのはあったかもしれないですね」と語られていました。それを受けて、藤田さんも「未映子さんと作業をするなかで、ちょっと先に進まなきゃいけないっていう言葉に出会ったような気がします」と語っていましたけど、この1年で見えたことをもとに次の時間に進んで行くんだろうなと思うんですよね。4月下旬には彩の国さいたま芸術劇場で『めにみえない みみにしたい』という作品を上演することが決まっていて、7月には青柳さんも出演する新作『BOAT』が予定されています。今、お二人の中で次の時間はどんなふうにみえていますか?

 

青柳 私は藤田君ほど俯瞰ができないです。穂村さんにも「やぎが舞台上で何をやってるのかよくわかんない」ってよく言われるけど、自分でも自分が舞台上で何をやっているのかよくわかんないんですよね。いまだによくわからないというのはすごいなと自分でも思うんですけど、自分のことだけはいまだにわかんないんですね。

 

藤田 僕に関して言うと、みえたものは結構明確にありましたね。『みえるわ』ツアーが終わってから、頭の中では11年目以降のことを考えていて。今は『タイムライン』をやってますけど、この作品も3月31日で最後なんですよ。ここ数年かけて考えてきたことが、2017年度で終わるんです。人の言葉も浴びることができたし、過去に自分が書いた言葉も浴びたことで、次のフェーズに行かなきゃ駄目だっていうふうに自動的に思えていて。これまで自分の外側にあったものが全部自分の身体の中に取り込まれて、消化された状態で出せるような気がしてるから、2018年度のラインナップに関しては相当咀嚼できた状態でいけるんじゃないかと思います。未映子さんが言っていたように、4月を迎えたときにみえているものは全然違うだろうなと思っていて、それが自分自身すごく楽しみですね。

収録日:2018年3月26日

(司会・構成=橋本倫史)